2018年04月22日

分かっているから

もう見たから…


マンガや雑誌、映画や録画番組などについて
「もうコレは、見たやつだから、もういいや!」
…と思って、捨てたり、消去
することがあると思えば

「コレは面白いから、また見る!」
…と思って、とっておくこともある.

結局は「面白さ」


「もう見ない、捨てる」理由が
「もう見て、中身を知ってるから」

「また見る、とっておく」理由も
「もう見て、中身を知ってるから」
つまり…
「もう見て、中身を知ってること」は
本当の理由では無い.

結局のところ、見て面白かったから
また見たい、とっておきたい.

面白くなかったから
もう見ない、捨てる…というだけの話

情報の価値


ただし…コンテンツの価値って
「面白さ」だけでは無い.

面白さには欠けていても…
見る人に、洞察や情報、影響、理解などを
与えるような「中身」があるならば

それはコンテンツとしての価値を
果たしたことにはなるし、
それを、広い意味の「面白さ」として
受け止める人だって、いるだろう.



ただし、情報の価値というのは
「いったん、知ってしまったら、終わり」
という性質が強いから

「一度見たら、もう役割は果たした」
ということで
「もう見たから、いいや」で
捨てられることも、多いかも知れない

展開と結論


別な言い方をすれば…

「展開」が面白がられた品は
一度見て、面白さを知ったら
「是非、また見たい、何度でも見たい!」
という展開にもなるが

「結論」に価値を感じるタイプの品のほうは
いかに、それが稀有な価値を提供していようが
「もう見た!」で、終わってしまう.

どちらが より良いかという話では無くて
それは「そういう品」なのだということ

面白さの提供


「面白さを提供したい」クリエイターは
ここを勘違いしてはならない.

いかに「斬新なコンセプト」や
「今までにない世界観」があったり
「教訓」や「情報」の価値は高かったとしても

中の展開に、ドキドキできなかったら

それは、受け手から
「一度みたら終わり」タイプに
分類される可能性が高い.

何か、メッセージを「伝えたい!」という意図で
企画されるコンテンツならば
これでも 問題は無いけれど

何度も楽しんで欲しいと思うのならば
それは失敗作であるかも知れない.

中身なんていらない


逆に…面白さ満点で
何度でも見たいと思えるコンテンツに
「中身」なんて、全くいらない.

「面白さ」として大事なのは
「人の心を揺らす仕掛け」であり
これさえ、上手く仕組まれていれば
モノは 何度でも楽しめる.

遊具


面白い品って、「遊具」みたいなもので

たとえば「ジェットコースター」なんてのは
人に 何か 大事な教訓や情報を
くれるわけでは全然無いし、
乗り物なのに「どこかに行ける」わけでも無いが

「人の心を揺らす」工夫が仕込まれているから
人は これを面白がって
何度でも乗りたくなるわけだ.

クリエイターとして
「面白さ」を目指すならば
このことを 分かっていなければならない

飽き


ただし…心を揺らすにしても
毎度、そこから想うことが全く同じだったら
「飽きられる」のも はやいわけで
結局は「もういいや」と言われる時は来る.

つまり…飽きにくいコンテンツとは
見る度に、受けるイメージが
「毎度、(微妙にでも)違う」部分があって
様々な感覚を味わえる見込みが持てる品のことを
言うかと思う

2018年04月21日

定義が無いから

人生


よく言われることではあるが
「人は、何のために生きているのか」
という問いには、答えが無い.

人は、なんだか知らないけれど、うまれてきて
実際、とりたてて何の目的意識が無くても
生きてはいける



まぁ、「目的意識」を持ったら
それはそれで、張り合いや生きがいが
感じられる人生を送れるかも知れないけれど

逆に、持つ必要も無かったような
辛さや苦しみを味わうだけになる可能性だって
あるわけで…

「目的意識を持つべきか」も含めて
「どういう目的を持ったらいいのか」
に、答えは無い

答えは自由


だから、「答えのようなもの」が欲しかったら
自分で、それらしいもの(目的意識)を考えて
持ちたい答えを持つことができる.

そして…その「答え」って
「自分でそれが答えだと信じられるような答え」
だからこそ、ついていける.



もし「人生は、こう生きろ!」という
絶対的な、唯一の正解があったとしたら

「そんな生き方は嫌だな」と思う人は
絶望するしか無いだろうが
…そんなことは無いのだということ.

だれもが、自分が最も行きたくなるような
目的意識を持って、それを頑張れる.

だから、言ってみれば
「個人のセンスや能力の最大限の発揮」が
できるような目的を
まずは 見つけることが、大事なのかも知れない

苦行感


その「目的意識」は
あまり厳密に、細かく決める必要も無く
「漠然とした、あいまいな意識」でも良いし
いくつか(複数)あってもいい.

目標に向かいながら、目標の中身自体が
次第に変わっていくなんてのも自由である

…というか、そういうほうが健全だと思う

だって、本当の本当を言ったら
「別に無い」というのが正解なのに

そこに対して「最初から厳格に、
一つだけの絶対的な答えがあると思う」
のって、それこそ一番勘違いが酷い
…とも言えるから.



そして、どんな人だって
「毎日、全く同じコース」だったら、
さすがに、そのうち飽きるものだし

どんなに「自分にとって一番のメニュー」
だろうが、毎日毎食 それだけだったら
「苦行」のようになってしまうわけで

まぁ、変えずに、苦行なイメージで
自分の道をすすむというのも
これまた自由ではあるが

音楽の定義


同じようなことは
どんなモノの定義についても言えるかも知れない

たとえば「音楽」とは「こういうモノ」
という、音楽の定義があったとしても
「そう思うのも自由、思わないのも自由」

たとえば2「ヒットする曲とは、こういうモノ」
みたいな「公式」みたいなものを
提唱する人などもいるが
それに完全に背いてヒットを出すことも
多分できるし、それは自由.
…というか、斬新だと言われるものは
むしろ 既存の公式を外しているはず.

そして、既存の定義や公式のようなものを
無条件で採用するのでは無くて
「自分で思う定義」に従うほうが
モノ作りは、多分、面白いものだと思うし

それで成功できたら
それは 自分の個性やオリジナリティが
「認められた」ことを意味する、とも思う

2018年04月20日

任せる才能

曲名づけ


私は、曲作りはするけれど
その「タイトル」は、自分では つけない.

何故かというと
「名付けセンスが無い」と自覚しているから
(正確には、自分でつける名前が
一般ウケするような名前では無いから)



それが、CDなどの形で商品になることを考えたら
曲の「タイトル」って、
すごく大事な要素であるはずなのに
それを「タイトルづけが下手な人」が
担当するのは「間違い」であり

そこは、もっと得意な人に任せるほうが、
はるかに良い結果になるわけで

大事な能力


まぁ…モノの「なまえ、タイトル」って
すごく重要な要素ではある.

商品の名称を変えてみたら
売れ行きが うんと変わった…だとか

名前一つで、「それが何なのか」という
認識や「意味付け」が全然違ってきて
くることだって珍しくは無い.

プログラムなどでも、変数名が
「分かりやすい」かどうかは
読みやすさ、保守性などに影響するわけで…

だから、名付けノウハウや、名付けセンスは
誰もが持っているべき、必須能力ではある

組織の最高


しかし…会社などの組織が
その組織の持つ、最高の結果を出すためには

「組織全体の総力として、最も良い結果」を
出せるように、と努めるべきだろうから

普通は「最も上手くそれが出来る人」が
そこを担当するのが良い…という判断になる
(まぁ、実際には 様々な事情はあるものだが)



そして、消費者というのは
「名付けまで、全部 一人でやったのか」
なんてことに、全く関心は無いし

名付けを頑張ったことで、その個人が
飛躍的にセンスを上げていようが
それは価値とは何の関係も無いことだ

音楽


そもそも「曲作り」についてだって
曲を作る人が「全て」を
作っているわけでは全然無い.

たとえば、各種の楽器の音(音源)となる
シンセの音色とか、ソフト音源の音は
録音や音作りの才能のあるプロが波形を作って
それを また別な、プログラマーが
上手く鳴るように作り上げたものだし

作曲する上で使われる各種のテクニックや
音楽理論だって、そのほとんどは
「自作」じゃなくて、
才能ある人のアイデアなわけで

「自分で全部作る」なんてこと自体が
そもそもありえない.

まぁ、自分で全部作ろうという意思があるならば
それは 立派であるかも知れないし
そうした行為からは、多くのモノを得て
何らかの成長やスキルアップもあるのだろうが

でも、そうしたら
最も良いモノが出来るとは到底思えない.

社長


企業の「社長」なんてのは

それこそ
「自分で、何もかもを最高に上手くやる人」
などでは全然無くて
むしろ、自分では何もしない.

あらゆることに才能があるから
社長のような立場になれているのでは無くて

「誰に、何を任せたら一番いい結果になるのか」
を、的確に判断し、任せる
才能が高いからこそ
社長という役が務まっている.


つまり…
任せるべきものを見極めて、
自分よりも、他人がやったほうがいいことは
その人に 任せることができる
…ということって、かなり大事な「才能」である
と言えるはず.

あとがき


まぁ、そうした
自分は不向きだとか誰が適役かなどの
「見極めのセンス」を磨くためにも
各種の体験は、あったほうが
いいかも知れないし

「いろいろやってみる」ことで
得られるものというのも多くあるとは思うが

「自分は、そこは やらない」という
決断をして、もっと適した人に
任せられる…という能力は
それ以上に大事なものであると思える

2018年04月19日

正しさの重視

正しさが良さ?


「正しいこと」が「良いこと」という価値観は
まぁ、おかしいものでは無いとは思う.

「真実や真理の追求」などが
高い価値を持つことだって、実際にあるわけで.

でも、それも程度問題だ.

…というか
正しさにとらわれ過ぎることには
デメリットが多くある.

攻撃性


たとえば「正しさ重視な姿勢」な人は

「間違い」を「悪いもの」であるかのように
イメージしがちで、
間違ったモノに 攻撃的になったりする.



あるいは、自分が支持しているモノのほうを
「正しい」と感じがちだからこそ

自分とは違う考え方に拒否的であったり、

「どちらが正しいか」と論争を仕掛けてきたり

他人の指摘を「攻撃してきた、叱られた、
怒られた」ように「強めに」受け取りがち

「自分の思ってる通り」で無い
あらゆるモノに対して、おだやかではいられず
強い調子で人を責めたり、追い詰める
…ようなことにもつながる

そうした人は、なんだか
「面倒くさい人」と言われそうだ

厳しさ


そういう人は
「正しくできない自分」「立派で無い自分」にも
「許せない、悪い!」イメージを持つものなので

自分にも すごく厳しい.

…というか、その厳しさが
「オレなんてダメなんだ…」というような
「自己評価が低い、自己否定的、自信の無い」
ような 自分を卑下する姿勢につながる



それは、見ようによっては
「向上心」のような、良さに
見えてしまうことも、あるかも知れないが

でも、とっても病的なモノだと私は思う

防衛的


「間違いが許せない」という意識は
自分を「防衛的、説明的」にさせてしまうものだ

過度な意識で「攻撃されないように!」と
心がける傾向が強いので

発言や制作物が
「ツッコまれないように、批判されないように」
先回りした、説明的な要素が多くて

自分や、自分の発言や、作るモノが
「なんだか、面倒くさそう」
「なんだか、小難しそう」
「なんだか、つまらなそう」…になっていく

狭いセンス


そうした人って、センスとして「狭い」のだ

だって…たいていのモノは
「良いところも悪いところも」持ち合わせていて
「どちらか」と言い切れるわけでは無い.

あるモノを、自分は良いと思うのに
相手は、間違いや悪いと言っているのであれば
それは
「意識を向けているポイントが違う」のだ.

「視野を広く持てる、センスの高い人」には
「両方の側面」が見えるだろうが
狭い人には「どちらか」に見えるということ.

「私こそが絶対に正しい!」と言い切る人は
基本的に センスが「狭い」のだ

情熱


まぁ「狭いセンス」も、
悪いとは 言い切れない.

たとえば「情熱ある人」というのは
「すごく狭い視野」でいるからこそ
「目の前のモノ」や「目的」に向かって
パワーを集中できるわけだから、

どんな考え方も「使い方」次第ではある
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心の持ち方

2018年04月18日

「変化」と「展開」

脈絡の無いストーリー


たとえば…「小説」のような、
ある程度長いストーリーで

「第一章」で 出てきた「人物」や「場所」や
カギとなる要素などが

「第二章」では、全く出てこなくて
まるで「全く別な物語」が始まったりしたら

読者は「ワケが分からない」感覚になるだろう.

まぁ、それが、続く 第三章、四章…で
次第に、つながっていく!というのならば、
それはそれで、納得できて、
結果的には 面白いと言われるかもだが.

変遷=展開


普通に考えると…ストーリー作品というのは
最初に出てきた登場人物や、何かの要素が

様々な都合によって、
「変化していく」様子を楽しむものだと言える.

最初、冒頭では、このようだった「この人」が
次第に「どうにかなっていって」
最後には「スゴくなった!」…みたいに

何らかの「変遷」「変貌ぶり」が
面白がられるわけだから

無関係だったら…


たとえば、色々な境遇を体験しながらも
主人公は、常に同じ人物だからこそ
読者はその「成長ぶり」を面白がれる.

このように、どのような「急展開」があろうとも
「場面は変わっても、共通する要素」は
なければならない.

なければならない…というか、
各章の関連が感じられなかったら
「一つのストーリーである意味」が分からない



たとえば、もし、分厚い小説のつもりなのに

無関係な、小話が、数十ばかり
次々と語られていたら…

それって、一つの話として
まとめてる意味が分からなくて
「なんで?」って 思うはずだし

そんな話が 何百と続こうが
その企画自体を面白がることはできまい

脈絡の無い音楽


一方、音楽(曲作り)の場合は

最初に流していた音楽の続きに
「それとは全く 関連の感じられない、
違う音楽」を つなげて鳴らしたとしても

「別に、おかしくは無い」ことも多い.

何故ならば、音楽って、基本的には
「イメージ、雰囲気」は伝えるけれど
「意味」は、伝えないから

「意味上の脈絡」自体が希薄だから

楽しい感じのフレーズの直後に
いきなり、悲しいフレーズが来ても

「曲調が変わったな」と思われるだけで
別に「ヘン」だとか
「意味が分からない」と言われることは
ほとんど無いから.

並べただけの音楽


だから…名曲と言われるようなモノでも
「全く無関係のメロディーが 続く」ような
音楽というのは、結構ある.

特に、二部形式とか、三部形式程度の
「シンプルな曲」であれば、

各部に脈絡なんて全く無くても
冒頭のフレーズが 戻ってくれば
それで、何となく「構成、展開」のようなモノが
感じられる…ということはあると思う.

でもそれも…
各フレーズが シンプルで全体長さも短いから
「覚えていられる」からだと思う.

その程度ならば、
ただ単に、二種類の音楽を「並べただけ」でも
そのイメージの組み合わせを楽しめるということ

展開の必要性


しかし…ある程度以上の
複雑さや、スケールを感じさせたいのだったら

「次々と、違う音楽が入れ替わる」
ような構成では
面白がれる音楽には、なりにくい.

だってそれって、
変化はあるが、展開は無いから.



実際、ある程度以上の複雑さや規模を持つ曲は

最初に「提示部」のような
「主題となるフレーズを 分かりやすく
反復させて、覚えさせる」段階があって

その後、それを、ちょっと違う雰囲気で
「変形、アレンジ」したモノを流したり
複雑さや組み合わせを違えて
その「変化ぶり」を楽しめるように作られる.

よく出来た曲は、まるでストーリーのように
「冒頭で なじんだフレーズ」が
様々に活用されて、
終盤には、スゴいことになる…みたいな
イメージで、展開していくわけで



まぁ、次々と 様々な要素が
入れ替わり立ち替わり出てくるような音楽だって
「音楽として、ヘンでは無くて
退屈もしないようなモノ」にすることは
多分出来るとは 思うのだけれど…

でもそれでは、いかにも
覚えにくい曲になりそうだし、

展開があるように作るほうが
きっと、もっと面白いモノを作れるはずだ