2017年05月22日

マイナスを入れてる

食べ物


我々が食べるモノって
基本的に「栄養」になる.

動くための燃料のように機能したり、
身体の調子を整えるのに必要となる

だから、一度食事をしても
動いたり、時間がたつと
次第に、お腹が減ってきて
また 食事を補給することになる

知識


自分の「頭」に、知識や情報、
体験によるイメージを「入れる」ことも

ある意味「脳に 燃料を補給すること」に
たとえることができるとは思うけれど

個人的には、これは「たとえないほうがいい」
と思うくらいに、違う事情がありすぎると思う

何もしない場合


たとえば、「食事」の場合は、
「何もしない、食べない」でいると
お腹が減ってくる、減少してくるが

「知識」の場合は、
「何もしない、何も取り込まない」という
状態自体が、ほぼ無い.

我々って、たとえ
「特に 勉強などをしていない」つもりでも
周囲から、目や耳を介して
絶えず、かなり情報が入ってくるわけで、

「何も入れない」どころか
「常時、入れ続けてる」ようなものだからだ

今、現実に見ている物事ではなくても
何かについて、ちょっと考えたり、意識する
…というだけで、
そのことを反芻して、
新たなイメージを持ったりすることだってある

入れてない勘違い


つまり…「何をしているつもり」も無くても
我々は、自分の頭に、モノを入れ続けている.

このことを自覚していない人は多いと思うが
このことは すごく重要だと、私は思う

何故ならば…多くの人って
「何もいれていないつもり」で
「マイナスになるもの」を、
どんどん入れているから.

マイナスを入れてる


たとえば…ちょっとヒマになると

TVで「つまらない、くだらない番組」を
なんだか見てたり
誰かへの不満の想いにひたっていたり、
愚痴や、文句、ネットの炎上などの
展開を ネットで眺めていたり…すると

自分の中には「マイナスのモノ」が入る.

まぁ、どういうコンテンツが
自分の意識やレベルを「下げるのか」は
自分の姿勢にもよるので、
一概に 何が「マイナス」と
言い切れるわけでは無いが

漠然と時間つぶし的に過ごしている時
こういう「マイナス」を入れていることは
誰だって、よくあることだと思う

なんにもならない


それと比べたら…
「なんにもならないモノ」のほうが
まだ、マシである.

たとえば、低俗な情報を
そうとも意識せずに 入れてるならば

その時間
「寝ていて、なんの情報も入れない」
ほうが、
マイナスにならないぶん、まだマシである

マイナスのほうが大きい


そして、もう一つ言えると思うのは
人が、絶えず採り入れ続けている
情報の多くは

「なんにもならないモノ」と
「マイナスのモノ」が 大部分を占めていて

たまに勉強したり、高い意識を持ったり
…といった「プラス」を入れてることは
それらとは比べ物にならないほど
「乏しい量」だ
…ということ.

なんとなく、そう思わないだろうか?

だって、勉強や修行などの「プラス」って
意識を高く、ハッキリと持った時でも無いと
なかなか入りにくいモノだが…

「マイナス」や「ゼロ」なモノは
常時、無意識のうちにも、
どんどん入ってきているわけで

そう思うと「環境」が人に与える影響も
結構大きそうではある.

意識くらいは


まぁ、私も含めて、ほとんど全ての人が
「そんな感じ」ではあるが

そんな入力状況であっても、
皆、なんとか普通に暮らしていけてるわけで
それは、たいした問題では無いのかも知れない

…でも、自分が入れているモノには
「マイナス」も、とても多いのだという
自覚は、あったほうが、多分良い.

今日の、このことを思い出して
「自分が入れているモノの質」のことを
ごく たまにでも、思う機会が増えるならば
それで 良い影響は、あるかも知れないわけで
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2017年05月21日

リードする役

トップランナー


特に スポーツの世界で目立つことだが
「何が何でも勝つ!」とか
「世界一になりたい!」みたいな目標を
持つ人って、いるものだ

まぁ、スポーツやゲームの多くは
あからさまに「勝敗」や「記録」の世界だから
「順位、トップ」を意識しやすい
ということなのだろう

そして、その分野の「王者、トップ(ランナー)」
として認められた人は、
その世界の リーダー的な存在として
みなされることも多いと思う

リーダー


たしかに、その分野の、著名な「トップ」が
多くの「その世界の人達のあこがれ」として
分野全体を 高みに「ひきあげる」ことは
あることだろうから

トップクラスの選手やクリエイターが
その分野の「リーダー」とみなされている
ことは、実際に多くあることだろう

…だけど…私のイメージだと「リーダー、
その分野をリードする役」というのは、
別に それが上手くなくても
(トップクラスのプレイヤーなどで無くても)
充分に務まるものだと思える.

ライバル


たとえば…小さな集団などでは
あることかも知れないけれど
「ライバルを蹴落としてでも、
自分が一番になるんだ!」…みたいな意識って

リーダー的では無い

ライバル的な人が、体調不良や
不祥事、うっかりミス等で「転落すること」で
自分が有利になる…という展開を
喜べるような人って

「順位的」には、トップクラスであっても
分野をリードする役としては、全く不適格.

だって、自分のいる、その分野や業界の中の
「一要素の質が低くなる、低いこと」を
喜ぶような人が、
その分野のリーダーだと言えるだろうか?

そりゃ、全く逆だろう

「リーダー的な人」というのは、
自分の分野や業界内の
誰に対しても、ライバルに対してでも
その「向上、高いこと」を願い、支援する
意思を持った人のことを言うだろうから

業界のために


…というか、
「業界や分野のために尽力したい」
という意欲が 高くあるのならば

たとえその人が「(トップクラス)プレイヤー」
じゃなくても、リーダーの資質は あると言える

たとえば、ソフトやコンテンツ制作メーカーでも
そこの 社長クラスというのは
何を直接創るでも無い立場であるものだが

でも…自社の 全てのクリエイターが
できるだけいい環境で、いい制作が出来るように
取り計らう役、という意味で、リーダーである

勝ち負け


そういう意味では「勝ち負けや順位」の意識って
邪魔な雑念でさえあると言える

たとえば、リーダー意識の高い人は、
子供のヤル気を高めるために
わざと「負けてあげる」こともできる(する)

実際、この意識においては
「勝敗」なんて 全く重要では無い.

「戦い」どころか
組織内の「殺伐とした空気を、友好的な雰囲気に
向かわせる」ような ムードメーカーみたいな
役割のほうこそが リーダーには求められる

ライバル


「ライバル」の意識にしたって、
それは「敵対する関係」にも見えるけれど

それよりも
「自分の分野を盛り上げる『同士』」
としての側面のほうを 意識して、
「一緒に盛り上げていこう」とする
姿勢にこそ「リーダーっぽさ」は現れると思う

「負けない人であること」よりも
「皆を勝利に導く」姿勢にこそ
リーダー性は 感じられるわけで

まちがっても、分野や組織内の
何かの質を「落とす」ことを
願ったり、喜ぶような人を
リーダーと思う人は いないのだ

リーダーの大きさ


立派なリーダーになると
その会社全体を「勝たせる」だけじゃなくて
ライバル企業でさえ、その成功を願ったりできる

それは「そのくらいに、大きな世界のリーダー」
だということを意味する

実際「自分だけ、自分の会社だけ」が
盛り上がるよりも
「分野全体」が盛り上がるほうが
結局は、いい展開にもなるわけで.
その姿勢は、正しいとも思う

あとがき


たしかに、自分のワザを磨いて
自分の順位を上げることも、立派だとは思うし

若い頃であれば
「周囲を蹴落としてでも成功するぞ」
くらいの意気込みもあっていいとは思うが

リーダーに近い存在に
自分がなっていけばいくほど
以上のようなことを、考える時期が来るとは思う

2017年05月20日

環境の作者

興味深いリーダー


たとえば、興味深い企画や作品を
発表してきている著名人が
「講演、セミナー」をする…となれば
結構 高額な料金を払ってでも見たい!という
熱心で、レベルが高い人が集まるだろうし

その人が、会社や組織を創るから、と
メンバー募集をすれば
レベルの高い人材が殺到するはず.

つまり…レベルが高い人のところには
自然と、レベルが高い人々が集まり、
レベルが高い人は、
レベルが高い集団の中にいるものだ

教師と生徒


自由な意思で 教師の元に集まってきた
生徒たちがいる…というような場でも

興味深い教師の元には
興味深い生徒たちが集まるし.
積極性あふれる講師の元には
積極性あふれる生徒たちが集まる.
…というように、
講師のレベルは、生徒のレベルに相応となる



自分の興味性や魅力では
人(生徒)が集まってこない程度の講師は

「安さ」とか「分かりやすさ」のような
なんとも冴えない「売りのポイント」でしか
人を集めることができず、

そして、そんなポイントで 集まっちゃうような
生徒たちのほうも
「そんな程度のモノに、ひっかかっちゃう」
という意味では、「それなり」である

自分の反映


教師が、自分の生徒たちの
「ヤル気の無さ」に怒りを覚える
…なんて場面があるけれど

今、怒りを覚えている、目の前の生徒たちを
そのように仕立てたのは、
教師、その人である.

あるいは、そんな意識の低い人が集まったのは
教師が「それなり」だからだ

教師の意識が高かったら
生徒のヤル気は高い状態になってるだろうし
そもそも意識の低い生徒なんて
来(れ)ないはずだから

勉学の場に限らず…
リーダーと その部下たちがいるならば
「メンバーって、リーダーの反映」になる

友達


上下関係など、全く無いような
「友人、知人たち」にも、このことは
ある程度言えると思う.

つまり…今、自分が親しく会話をしている
「友人のラインナップ」というのは
自分が、自分の考えや好みによって
選んだ結果であり、
言い換えれば「自分の創作物」であり
「自分の反映」に なっているはず



だから「オレの周囲は、バカばっかりだ」などと
嘆いているのであれば…それは、それを言う
当人が(相応に)バカだから…ということになる

レベル相応


要するに「低レベルな人が周囲に多い」なら
それは、自分のレベルが低いからに他ならない

普通に考えたって…
レベルが高い人というのは、
自分以上にレベルが高いと思う人の
近くにいたいはずで.

だから「ヒドい奴」「ダメな奴」が多いと
嘆いたり、怒ったりすることが多い人は、
まずは「自分のレベルの低さ」について
見直さなければならないだろう

客のマナー


「店、集客」ということにもこれは言える.

自分の店の「客たち」のマナーが悪いのは
店が提供しているモノのレベルが低いから
安さや、安易な要素での客集めしか
できなかったからこそである

逆に、一流の店というのは,
高い魅力を提供できているからこそ
高額な料金設定ができて、レベルの高い
客しか「来れない」ということ

ダメ上司


同じ理屈で…もし、あなたが勤めている
会社の「上司」が「全くのダメ上司」だと
思えるのならば

それって、「そんな奴でも、上司になれちゃう
ような低レベルな会社」を 選んだか
あるいは、そこにしか行けなかった
あなたのせい」である、と考えることもできる

普通に考えたって
そんな「立派な上司に適当な人格者」というのが
いるとしたら、その人は、もっといい会社に
行けてるはずで…そんな立派な人が 文句の多い
あなた程度の人物の上司でいるはずが無いのだ

そして、このことを考えもせず、
棚に上げて、自分の同僚や上司、環境等の
怒りを覚えるのって
「相応にレベルの低い行為」には見える

自分が今いる、あらゆる環境、状況って
あなたが選んだか、作ったのだ.

あとがき


魅力あふれる人に囲まれたい!と願うのならば
まずは、自分の魅力や興味深さを磨く必要がある

…というか、自分のレベルが上がれば
自然と周囲のレベルも上がっているはずだし

自分の興味ポイントへの探求を極めていたら
自分の周囲の人々も「そういう人たち」に
いつの間にか、なっているものだ

2017年05月19日

勝手に教師

子供から教わる


よく、教師が
「子ども(生徒)からも、いろいろ教わってます」
などと言うことがあるが

たしかに、相手が小さな子どもだろうが
自分とは、違う人生を歩み、
自分とは違う関心事を持った人というのは
自分が知らないことを、沢山知っているわけで

まぁ、どんな人からだって
「何も 学ぶべきものが無い」なんてことは
全くありえない

受取能力


そういう意味では、
世の中の、誰もが、自分にとって
何かを教えてくれる「教師」の
ような側面は、持っていると言える.

ただし、そこから、何かを
「受け取る、得る」ことができるかどうかは
受け取る側である 自分の「受信能力」に
よっている部分は、大きい

たとえば、子供から学ぶにしても
頭から 子供をバカにして
何かを受け取れるとも思っていなかったら
その通り、何も受け取れないだろう

まずは「何かを受け取れる」ことが
当然のことだと悟り、受け取る姿勢を持ち
そして、いくつかの「受け取るコツや能力」
を身に着けることができたら
自分の目の前の人、全てが教師であるかのように
思うことも できるかも知れない

まぁ、私自身は、そこまででは無いが.

教師のいない分野?


でも、(そうは言っても) そこらの人は
「自分が知りたいこと」を都合よく
教えてくれる…というわけでは無い.

特に、私などは、性格上、
自分なりの「趣味」や「探求」を
「狭く深く」すすめるタイプなので
私の居場所って、既に
「自分独自の分野」みたいになっている.

そんなところに、教科書や教室などは 勿論無い
…というか
自分以上に、そのことを普段から考えて
色々知っている人が、いるとも思えない

ある程度、自分独自の世界を突き進めた人には
もはや「教師」なんて、
いないのでは無いのか??…と

私も、そう思っていた時期もあったのだが

実は これも、自分の意識次第だと最近知った
(ので、以下、これについて書いてみる)

教師を呼び寄せる


今日、言いたいことでもあるのだが
自分の、マニアックな狭い世界の
「教師」というのは、

自分が、そのマニアックぶりを発揮することで
きっと見つかる.

いかに、狭く深い分野だろうが
それを、高度に極めた活動を見せていたら

そこに「響く人」は、
少ないながらも、必ずいて、
あなたに近寄ってくるはず.

そして、そのような人というのは
あなたの狭〜い活動に「響く」くらいなのだから

ちょっとした 何気ない会話をしていても
あなたにとって 興味深いことを言い、
様々な「教え、気付き」を与えてくれるはず

このように、狭い所に いる人「同士」って、
互いに教師のように機能するものだ

教えて無くても


たとえ、「教えているつもり」などは無くても

自分の興味ポイントと
同じモノに響いている人同士が言うことって
興味深いモノであることが多く

それが 直接的な「教え、情報」では無くても
何か 行動する「きっかけ」になったり、
何かに気づく「ヒント」になったりする.

そうして、自分が何かを「得る」ことが
あるならば、その相手は
自分にとって「教えをくれた」とみなせる.

だから、自分に響いた人というのは
勝手に教師とみなすほうが「得」だと思う

あとがき


自分自身が、相手に 結構なモノを与えるような
「極めた人」に なっていてこそ、

そんな自分に響くような
「何かを与えてくれる人」が、寄ってくる.
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2017年05月18日

目標の創造性

特性重視


私は「個人の特性や才能」を重視するほうなので

「自分こそが出来ること」は、
とことん深入りする一方、

「自分に向いてなさそうなこと」は
さっさと見限ってしまうことが多く、
だから「しようともしないこと」も多い.

良く言えば「尖ってる」
悪く言えば「狭い」

…この考え方自体にも、
良い面と、悪い面(損してる側面)があるとは思う

上手く行く人


そんな極端な私だから…思うことかも知れないが
私は…物事の達成や成功ということに関して
「上手くいく方法」があるのでは無くて
「上手くいく人」がいるのだ
という考え方が 基本的にある

どういうことかというと…たとえば

よく、ある分野の成功者の
「考え方、習慣、心がけや秘訣、ノウハウ」を
いかにも「こうすれば、成功できる」かのように
紹介している本や記事があるが

実際は、同じノウハウや洞察を与えられても
それで、成功する人もいれば、失敗する人もいる

結局のところ…
「最初から 成功するような人」が成功し、

失敗するような人(≒そもそも向いてない人)は、
たとえ、その道の偉人から多大なヒントを得ても
それを あまり活用できなかったり、
辛く非効率な苦労や努力を重ねてしまう
…というように、思ってしまう.

向き不向き


つまり、私って
「誰かが出来てるなら、きっと自分にも出来る」
みたいな考え方には、わりと否定的なほうで…

こういう考え方って、そう思わない人から見たら
大変「不謹慎」に感じられるかも知れないけれど

人は、自分に向かないモノを目指して
必要以上の苦労を重ようとするのでは無くて
まずは、自分の特性や才能を見出して
それを ラクラク活かしたり伸ばしながら
自分なりの道を歩むべきだと考える

人の「子供時代、学生時代」というのは
「色々 できるようにするため」に
勉強や経験を積むという側面も
もちろんあるとは思うけれども

それ以上に…「自分が、どんな存在なのかを
見極めるため」に 様々な物事をやってみる
機会と時間があるのだ…というようにも思える



つまり、人間の子供時代の目標って
いきなり「プロレベルを目指したトレーニング」
を積むことなのでは無くて…

大人になるまでに、できるだけ
「自分だけが、異常なほど上手く出来ること」
を見つけて、「自分に向いていることで生きる」
決心をすることなのではないのか

そしてそれさえ つかめたら、その人には
そこにたいした「アドバイスやノウハウ」など
無くても、うまく、幸せにやっていけると考える

才能を伸ばす


そして、いったん自分の「才能(らしきもの)」に
気づくことができたら
その後は、それを「活かす、伸ばす」ように
考える必要ってあると思う.

才能だけあっても(あると感じてだけいても)
才能を活かした、技術や行動が無ければ
それは発揮されないし、伸びることも無いし
どんな天才の才能だって
最初は「芽」みたいなものだろうから

目標=自分


…で、この意識を しっかりと持っている人は
「目標意識」の中身も
誰とも同じでない、稀有なモノになるはず.

何故ならば…各自の「目標」の中身って
「自分の現状の技術や考えのレベル」よりも
「少し上、少し先」の
「近未来の自分」のことを言うはずだから

今、既に、自分の才能や特性を活かして
いる人は、
今、既に、凡人には理解もできないような
ぶっとんだ目標を持てているはずなのだ

「自分が できそうも無いこと、
考えても無いこと」というのは、
目標として掲げようとも思わないわけで.



逆に言えば…凡人であればあるほど
誰もが掲げそうな ありがちな言葉を
目標として掲げているが、

これはむしろ
「平凡な目標意識しか無い人のことを
凡人と言うのだ」と言うほうが
正確な認識であるかと思う

才能ある人の目標


まぁ、当然のことではあるが
自分の目標としてイメージする内容って、
その人の「頭の中の反映」ではある

稀有な理想像をイメージできる…と
いうこと自体が、才能によっているわけで

…でも、特に、自分がクリエイターであるならば
「今後、つくりたい『自分』」というのが

「そこそこレベルが高いっぽい人」くらいの
イメージで、満足いくんだろうか?…とは思う

自分が クリエイティブだと思う人は
もう少し オリジナリティのある
稀有な目標を持っているものではないの?