2017年10月20日

片言から分かる本質

意思の疎通


英語がたいして得意じゃなくても
外人と、コミュニケーションを
とりまくりたがる人って、いるものだ

あるいは、言葉が分からないような国に
平気で行けるような人…というのがいて

現地の人と、言葉は分からなくても
身振りや 話しぶりで、
なんとか意思の疎通を図っちゃう
…というような人もいる.

言語能力


一方、中学から大学まで、10年くらい
英語教育を受けて、
テストでも高得点採れても

実際に外国の人が目の前にいると
言葉が出てこない…とか
英語圏の人を避けちゃう
…みたいな話は、よく聴くものだ.
(…というか、私もそうだし)



まぁ それでも、そうした人にとって
英語を学んだ意味は、多分にはある.

だって、たとえ会話は出来なくても
英語の表示や文章が読める…というのは
かなりの価値だからだ

それに、言語を学ぶということ自体、
言語だけじゃない、様々な
文化や思想を学ぶことにも通じるわけで
…個人的には、かなり楽しんだほうだが

片言でも…


…で、今日、考えてみたいことは
「ほとんど片言でも、
相手と意思の疎通を楽しめるような人」と

「単語や文章の読み書きは上手くできるのに
会話は避けちゃうような人」の

どちらが、
「コミュニケーション能力が高い人」だと
言えるのか?
…ということ.

まぁ、言うまでもなく前者だろう

言葉抜きでも


そう考えてみて…思うことは
コミュニケーションの道具として
真っ先に 誰もが思い浮かべる能力が
「言葉、言語」だろう

だけど…本質的なコミュニケーション能力って
その道具であるはずの「言葉」とは
全く関係ないところに ある.

英語のテストでは高得点がとれるのに
会話は出来ない…だなんて
どれだけ コミュニケーション能力が無いのか

逆に…テストはダメで、片言なのに
意思の疎通が出来る…だなんて
どれだけ コミュニケーション能力に
優れているんだろうか

犬や猫でも


真に コミュニケーション能力に優れた人は
言葉なんて交わさなくても
「なんだか友好的な雰囲気」があるものだ

そして…相手が 人間じゃなくて
…たとえば、犬とか 猫であっても
わりとすぐに 仲良くなれる.

…というか、言語にたよることが出来ない
動物と 上手くやりあえる人こそ
本質的なコミュニケーション能力のある人だ

そういう人ならば
もし、宇宙人などが来たとしても
普通の人より、いい展開にしていけるはず(笑)

モノ作り


そして思うのは
「モノ作り」だって、コミュニケーションだ
ということ

そして、人が英語を勉強するのと同様、
モノ作りを上達させたい人は
各分野の「作りかたやワザ」を
習得していくわけだが…

これも「英語は得意でも話せない人」と同様に

「作り方や ワザ、ノウハウ」は熟知してるのに
何故だか、ウケが悪い

作品の見た目は、商品のように整っていても
面白さには欠けていて 誰も 飛びつかない
…みたいな品しか作れないような人

そういうことって、あるかと思う

本質的な何かを、まず分かっていないというか

理論


音楽の世界でも…各種の理論は
より ちゃんとしたモノを作るために
必要なものだとは思うけれど

実際、この「理論、文法みたいなもの」を
知らなくても
ウケのいい曲を どんどん作れる人はいるし

逆に、これを高度に知っていても
作るものはつまらない…という人もいる

やっぱり「本質的な何か」が無いと
道具だけあっても、ダメなのだ



まぁもちろん、だからといって
その「本質」さえあれば
道具なんて いらない…とは
言えないとは思うけれど

音楽なんてのは、基本的に
「意味じゃないところ」が価値である
部分も 結構大きいのだから
この「理論以前の何か」は
かなり 大事なものであるはずなのだ

2017年10月19日

広義の思考力

病気


たまに、忙しい時に

「熱とか出て、会社を休みにできたら、
ゆっくりと本を読んだり、テレビ見れるのに…」
などと思うことがあるけれど

実際に、熱が出て、具合が悪くなって
会社を休むようなことに なったら

たしかに、時間は タップリあるけれど…
でも、気分が悪いためか
本なんて、読む気力も起きず、

ただ見てりゃいいはずのテレビだって
つけたくもならないものである.

要するに、健康でないと
思考や精神的な活動も、できなくなるということ

健康


まぁ、若い頃は
「健康」についてなど
あまり心配もいらないものだが

大人になってくれば
体力や、視力も 落ちるし、
ちょっと「食べ物」を違えただけで
調子が悪くなったりしてくるものだ

そして思うのが…
「健康、身体の調子」によって
「思考力」って、大きく変わるものだなぁ
ということ.

まぁ、頭脳だって 身体の一部なんだから
それも 当然のことではあるのだが

不安や悩み


あるいは、「不安や悩み」なども
その度合が強いと
人の「気づく力」「思考力」を大きく落とす.

誘惑


「誘惑、雑音」などの邪魔も
それに とらわれることで
「すべきこと、考えるべきこと」が停止する.



旅行や、読書、見聞なども…
一般的には「良いこと」のように思われているが
そこに、とらわれている間は思考が停止する

お金


「極端に 貧乏」…みたいな状態も

些細な雑用まで 全部自分で
しなければいけなくなったり
余計な手間や作業を増やしたり、
あるいは単純に 心配事を増やしたりして

人の思考力を 大きく落とすものだ.

たいした考え


あるいは…今の世の中

ネットや本を ちょっとでも見れば
既に、誰かが考えた
「いい結論、アイデア」が転がっているので

自分で考える必要も、感じなくなっていく.

こういうのも、人の思考を妨げる
大きな要因であるはず

思考力のために


以上をふまえて、今日言いたいことは
人が、たいした考えを「する、持つ」ためには

いい考え方をするための
ノウハウを求めるよりも、まず先に

「思考を さまたげる、様々な要因」が
まずは、あるということに気がついて、

そして、それらの各要因に、気づいて、

そして、それらを減らしてみることが
必要であるはず

2017年10月18日

自分と相手の世界観

作品の世界観


多くの作品は、
作者が、何らかの「狙いや考え」を
持って(持ちつつ)作られ、込められる

だから、上手くできた作品からは
うまく出来た作品からは
作者が込めた「イメージ、雰囲気」が
出ているはず.

作者の世界観


そして、作者が作品に込めるものは
作者自身の考え方や指向(好みやこだわり)
が、多いだろう

まぁ、作りものだから
作者が 普段 考えても無いことを
込めることも、可能ではあるが
それも「意識できる要素」に限られるわけで

多くの作品には、自然と(無意識で)
作者の持っているイメージや世界観が
入っているものだ

モノの魅力


そして、モノの魅力の一部は
「作者の持ってる 世界観の魅力」だったりする

作者の感じ方や考え方が
「なんだかいい感じ」であれば
中身が何だろうが…そこからは
「なんだかいい感じ」が少しは出ている.

たとえば…同じ意味の発言や文章であっても
「やさしい人」は、
言葉遣いや言い方が「やさしい」感じはあるかも

魅せ上手


ただし…そうした
「作者の世界観」「作品の世界観」も
その魅力が、伝わるように
上手く設計されていないと伝わりにくいので

作品や発言などは
「魅せたいモノが、魅力的に感じられるように」
と…様々な 配慮や考えを駆使して
作る必要がある.

それらは、「作る技術やノウハウ」を
学ぶことでも、かなり上達できる.



ただしその見せるべき「元ネタとしての魅力」が
そもそも無かったり、考えていなかったら

…当然ながら、どんなノウハウを使って
丁寧に仕上げようが、何も伝わるものは無い

受け手の世界観


ここまでは…まぁ、よく言われることだと思うが

今日の本題は…
「受け手、観客、見る人」の側も
自分なりの世界観を持っている
という話.

作者は、自分の世界観をしっかりと持って
これを、上手く伝えたら、それでいいか?
…というと、それだけでは 不足である.

やはり…「伝達」である以上、
それを「受け取る人のこと」も
知らなければ、考えなければ…
モノゴトやイメージは、上手く伝わらないわけで

世界が違う


…というか、単純に「世界が違う人」と、
意思の疎通をするのは 難しいものだ

たとえば、日本語が通じない…とか
異国、異文化で生きている人とは
我々が普段 使っている 言葉や方法は
通じなかったり、誤解されることが多くある.

自分の世界観から見たら
それは、大変に魅力的に思えても…
通じない人には、意味も分かってもらえない

伝えかたも違う


たとえば…外国の人が相手だったら
「翻訳」したり「絵や図」が無いと伝わらない

たとえば2、日本の食文化では
「魚の活造り」が 高級な ごちそうだと
みなされるものだが、
多くの外国人には、それは残酷に見えるそうで
その魅力は 全く伝わらない

たとえば3、高い教養を持っていないと
通じないような 政治がらみのジョークなどは
前提を知っていない人には、全く笑えない.



まぁ 以上は、極端な例かもだが、でも
どんな場合にも こういうことは起こりうる

自分の世界観から見たら
それは、いかにも魅力に見えても
相手の世界観(センスや文化)から見たら
どう見えるのかは、分からない
ものなのだ

ひとりよがり


最悪のケースだと…たとえば
「作者である自分にしか、その面白さが
通じない品」というもあって
これは「ひとりよがりな品」などと言われる.

そうした品も
面白がれる人が 一人(≒作者)はいる以上、
面白さは 入っては いるのだろうが

でも…そうした品は
「受け手から見て、どう見えるのか?」という
観点が 欠けている

やはり、人に向けて、モノを伝える以上は
相手を見ないと、
「どう」伝えていいのかは、決められないもので

世界観の同一視


まぁ…多くの人は
ちょっと何かを 言ったり、伝える際は
「相手も、自分と同じような世界に生きてる」
と 思いこんで(信じて)いて
実際、それで「近くの友人知人」には通じるので
このようなことは 考えていないかも知れない



だけど…クリエイターとしての
意識や 実力をあげていって
「自分で、世界を作る」ようになったら…

「相手には、まだ、その世界観は無い」
「相手が、まだ その世界を知らない」
ケースは、増えてくるだろうし
そのギャップも大きくなってくるわけで

「相手、受け手」のことを考える必要性は
強く感じてくるはずである

あとがき


相手の世界から、自分の世界を
見てもらう、来てもらう、興味を持ってもらう
ためには…

相手が どんな世界にいるのかを
まずは 知らないといけないという話

2017年10月17日

重視ばかり

好きだらけ


よく言われることだが…
あれも コレも、何でも「好きだ」という人は
何も 好きでは無いのだ

これって要するに
「その時、気が向いた対象が好きになる」
という性質のことを言っているに過ぎない

だが普通に考えてみれば
「嫌いなもの」が、数割くらいはあるからこそ
一部のモノを「好き」と言える.

実際、まっとうな好き嫌い感覚のある人は
「好き」を言うこともあるが
それ以上に「コレは嫌い」ということを
言うものだ

重要性


選挙の時期になるたびに
候補者が「福祉の重要性」とか
「国の借金対策」がどうとか…
様々な公約めいたものを言うものだけれど

「あれも重要、これも重要…」とばかりに
何もかもを重要だと言ってたら

結局、何を重視しているの?って思われてしまう

まぁ 世の中の問題を ひとつひとつ見ていったら
あれもこれも…いちいち重要のように
思えてしまうかも知れないけれど

でも、政治を任されるような人物は
「明確な優先順位」の意識や考えくらい
持っていなければ、国や地域を
どこかの方向に もっていくことはできまい

実際、ちゃんとした考えを持つ人というのは
「何は、軽視するか」「何を犠牲にするか」
のほうを、はっきりと言うことができるはず

重視のローテーション


まぁ、たいていの人は

何かの重要性を説かれるたびに、
「ああ、たしかに重要だな」と思って
すぐに それを重視する姿勢になるものだが

それって
「これまで重視していたモノたち」の
重視の度合を、古いものから順に
下げていってるのと同じようなものである.

要するに
言われたり、宣伝されたり、記事を見れば
その都度「優先度がアップ」はするが
その度に、他のモノは軽視…となるだけで

これでは、その人が
「自分にとって大切なモノがある」とか
「特定の対象を重視している」とは言えない

拒否の姿勢


つまり…本当に重視しているモノが
明確に「ある」人というのは

たいていのモノを「拒否」する.

いかに、その素晴らしさを説かれても
いかに、それをオススメされても
「びくともしない」…みたいな

個人的にも、こういう姿勢は 立派だと思える.

そして、そのような態度を示しているだけで
「考えや存在感を持っているような
イメージ」は、自然と出るはず

あとがき


人は何か「大事にしているもの」を
いくつかは持ったほうが良い…と個人的には思う

そして、人間が 一度に気を配れる
対象の数は、あまり多くは無い.

その上、人生も…意外と短い気はするわけで、

何故、そこまでコロコロと
重視するものを変更できるんだろうか?と
思ってしまう

2017年10月16日

疑う材料

否定してみる


私の文章に「よくあるパターン」として
「〜と、よく言われるが…でも…」
「多くの人は、〜だけど…」
みたいに

「よく言われていること」や
「普通、そうだと思われていること」の
否定から入る…というのがある.

時には、常識であるかのように
使われているような有名な理論や、
偉人の名言なども否定してみている.

それはやっぱり
モノを考えたり、文章のテーマとして
「当然だと思わていることを崩す」
というのが、面白い(面白がられるだろう)からだ

正しさは流動的


そして実際
どんな立派な言葉や、
真理をついた言葉であっても

「いつでも必ず正しい」とまでは
言い切れないモノが、ほとんどではある.

…というか、状況によって
「正しい方針」は違うのが むしろ普通なわけで

「いつでも正しい、絶対的な考え方」
なんてのが、あると思うほうが、多分おかしい

だから…常識や名言の「否定」なんて
実は、結構、簡単だったりする

正反対の教え


実際…意味が「正反対」な ことわざや
生き方の秘訣というのは、いくらでもある.

たとえば「善は急げ」という言葉があると思えば
「急がば回れ」…というのもあるわけで、

「正しい方針を採ろう」と思う際に
「言葉」に たよろうと思ったら
「結局、どっちを選んだらいいの?」
ということになる(笑)

どんなに 名言や洞察をあつめようが
結局のところ、
我々は、自分の直面している状況を観察しながら
自分で考えなければ、ならないのだ

だからこそ、このブログでも毎度のように
「観察、センス」や「考えること」をテーマに
それらの重要性について、書いているわけで.

考える練習


…で、
「常識」や「名言」「既存の理論」などを
「疑ってみる、否定してみる」ことが

「思考力を鍛える」ことに、つながるとも思う

実際、ちょっと考えてみれば
「よく言われていること」の
反例や例外なんて、わりとすぐに見つかる.

そして、そこを「突いてみる」ことで
自分でも あまり考えたことも無かったような
考えに行ったり、何か洞察を「得る」こともある

否定から得るモノ


そして…そういった
「否定や疑い」から、出てきたモノは

間違いなく、自分が考えたことの結論なわけで

その「考え」は
名言のような「他者の考え」では無くて
立派な「自分の頭から出た、自分の考え」である
(まぁ、偶然に、多くの他人も考えるかもだが…)

このようにして
「他者の言葉」をネタにして
「自分の考え」を、増やしていくことができる

疑う材料


今日、言いたいこと
「ありがたい教え」や「常識、理論」などは

「信じるべきもの」なのでは無くて

「疑う材料」である

考える行為って、
基本的には「疑うこと」ではある.

素直に、ポジティブに
人の言うことを受け入れるだけでは
自分を失うし、思考も無い.

基本姿勢は、ネガティブに
「疑う、否定してみる」ことなのではないのか