2018年06月23日

揺らぐもの

揺らぐ心


人の好みや、考えること、意識って
意外と「コロコロと」変わるものだ.

「確固とした考え、信念」みたいなものを
持っているつもりの人だって
テレビにラーメンがうつれば、
にわかにラーメンが食べたくなり、
団子を見れば団子が食べたくなるみたいな(笑)

「これこそが良い!」みたいな趣味嗜好だって
あるモノをみた一瞬くらい
「ああ、こんなのも良いなぁ」程度には
思うことはあるだろうし
好きなモノや人の中にも、嫌な側面を
意識する局面というのはあるわけで

一瞬の考え


その一つとして
「ふと、『いいな!』と思えたこと」
「一瞬、『面白いな!』と感じたこと」
…みたいなのって、誰にも結構あることだと思う

たとえば、道を歩いていて出会った
印象的な風景を「いいな」と、ふと思ったり
頭をよぎった「ひらめき」を興味深い洞察
のように感じたり…

そういうのって、たいていの場合
一瞬だけ想って、そして、直後には消えてしまう

まるで「ゆらぎ」みたいに
一瞬、良さが見えて、そして消え、忘れられる
…みたいな.

その多くは、些細な面白味や興味性の
「ちょいネタ」であり
インパクトは小さい (からこそすぐに忘れる)

自分の考えだけど…


そういうのって
一応「自分の考え」「自分が面白いと思うこと」
だとは言える.

だって紛れもなく、自分が考えたこと、
自分が面白いと思えたことなのだから

でも…「今、自分が考えていること」では無くて
「あの時、一瞬、持った 考えや意識」
ということではあるが.

揺らぐモノの固定化


こういうのを、
「一瞬、自分を通り抜けた面白味」として
逃してしまうのって、勿体無いことかも知れない

だって、そうした「ふとした、小ネタ」だって
メモしておいて、後でじっくりと向き合ったら
もっと面白いネタに「育てる」ことも
できたかも知れないし

そうした「人が気が付きにくいモノ」や
「誰もが、すぐに捨てるモノ」の中にこそ
「人が、あまり拾えないような洞察や考え」は
あるかも知れないからだ.

つまり、自分の中に一時的に発生した
「ちょっとしたもの」に、気づいて
これを捉えて、育ててみることで
創作のネタになるものは、
結構拾えるのではないのか

メモ魔


いわゆる「メモ魔」みたいな人も
こういうのを狙っているのかも知れない.

つまり…人は
「印象に強く残った、重要そうなこと」は
とりたててメモする必要は無い.

だってそんなのは
メモしなくたって 強く心に残るだろうし
他の誰もが 同じように心に刻んでるから

それよりも、
「もう、次の瞬間には忘れそうな
些細な発見や 思いつき」こそ、
メモをとっておくべきである.

自分の中で、ちょっと「ゆらいだこと」こそ
捉えておいて、じっくりと向き合ってみたら
それが、独自性に富んだ「ネタ」に
育つと思う

スナップショット


まぁ、このブログのネタの多くも
私が 常日頃から考えていることでは無くて
「ふと、おもったこと(おもってみたこと)」
から来ている.

それって言ってみれば
「ある一瞬、自分に起きた想いの
スナップショット」みたいなものかも知れない

その「一瞬通り過ぎそうになった良さ」を
取り沙汰して、後から見ても、他人から見ても
思い出せる形にまとめてみることで
興味深い文章って、作れたりする.

(実は、今日のこの記事も、そうなのだ)

ネタ切れ


「ネタが無いから作れない!」みたいなことを
言って、作らない人…というのもいるけれど

たいていのクリエイターは
別に「作りたいネタ」を持っているわけでは無い
あっても、そんなの
一つ作ったら「消費」されちゃうわけで.
よく作る人ほど「ネタ切れしてる」のが
デフォルトの状態であるとは言える

それでも、作りなれた人というのは
どこからともなく、ネタを思いついて
手早く、作品を作り上げてしまえるのは

自分の中の「ゆらぎ」に敏感で
それを拾い上げる意識があるからだし
それについてじっくりと考えて
ネタを育てる姿勢を持っているからだと言える

ネタになるネタ


まぁ私は「メモの習慣」も持っていない.

それは、一瞬のネタを軽視しているというよりは
「その程度のネタであれば、いつでも拾えるし
それを育てることができる」と思っているからだ

そして実際
自分でも、何が思い浮かぶかわからないような
「儚い、些細なこと」のほうが
自分にしか作れないネタに なりやすいと思う

実は「発想力」って、
「いかにも面白そうなネタを思いつく能力」
よりも、こういうことを言うのではないのか
…とすら、思っている

つまり、インパクトあるモノが
ネタになるのではなくて
インパクトの弱いモノを拾い上げて、
その面白さを分かりやすく表現することで
インパクトあるモノが作れる能力のことこそを
「発想力」と言うのでは ないのかと
posted by niwatori | Comment(0) | TrackBack(0) | 発想法

2018年06月22日

役作り

声優や俳優


プロの声優や俳優は
単に演技が「上手」というだけじゃなくて

いまから演じようとしている
「ストーリーや、世界観、役」を
できるだけ理解しようと努めて
その世界の、その役に「なりきろう」とする

そのレベルが高いからこそ
受け手を魅了するような演技ができる

演奏


曲の演奏などでも同じで
…たとえば、一流のオーケストラの
指揮者や奏者というのは
単に「上手」というだけじゃなくて

まずは「曲の解釈」を大事にする姿勢があって
曲のテーマや、表現しようとしていることを
読み取って、高く深く理解した上で、
曲の展開や、楽器同士の
「かねあい、ありかた」も考慮しながら
演奏を行うからこそ

そこから「狙い通りのイメージ」が
醸し出されて、聴衆を感動させるのだと思う

これって、冒頭の 俳優の例で言うならば
全奏者が、自分の「役作り」を
しっかりとしていてこそ、いい結果が出せる
…ってことになるかも

映画


映画やアニメ、ゲームソフトづくりでも
まずは、その作品が「表現したい世界観や、
訴えたいイメージ」が明確にあった上で

制作にたずさわる すべてのメンバーが
「狙うイメージ」に沿った 舞台設定や
色彩設計、照明の当て方や、音質
背景の描写というのを、考えるからこそ
いいものになる.

そこに出てくる「人物」はもちろん
それっぽい役作りをするわけだけど

そこに出てくる「小道具ひとつ」にしても
「背景の色合いや質感」にしたって
「極力その世界を上手く表現できるような感じ」
に、しようと 務めることで
その世界は 高いリアリティを持つわけで

言ってみれば、すべての登場要素、
…というか、それ以前に
設定や配役を決める「工程」にも

…要するに「すべて」に
「役作り」の意識があって然るべきである

音楽制作


音楽制作などでも このことは大事で
全ての楽器や、その演奏、表現、音符は
「狙う世界をつくりあげるため」にある
という意識をもって
作るかどうかで、結果の質が変わる.

たとえば、太鼓を一発「バン!」と叩くだけでも
「その曲やその曲の展開、雰囲気に合った
叩き方、音色」というのが、音符ごとにあるはず

細かく考えれば
同じパターンが反復される際にだって
一度目と 二度目では「役割」は違うはずだし

…というか
「全く同じ役」なんて、そもそも無い.
(あるならば、一つを残して省けるはず)

その要素は、何を演じるためにあるのか?
…という「役作りの検討」は
時間さえ許せば、いくらでもできるはずなのだ

…そのように考えて作られたモノは
ひとつひとつの要素は微妙な違いだろうが
全要素が それをしていくことで
全体として感じられるモノの質は
かなり上がっているはず.

感情移入


作品の世界に、人をひきこむにあたっては
作者こそがまず「感情移入」すべきだと
言う人も、多くいる.

まぁ、私自身は
「作者自身が感情移入しちゃうこと」には
弊害もあると思っているので、
そうした方針は採ったことが無いのだが

役作りのために、その役に
「なりきってみる」ことの意味は
もちろん分かるので、
やりたい人はやったらいいかも知れない.

2018年06月21日

もう一展開

終わったと思ったら


映画や小説のストーリーに、よくある展開として

「問題解決して、めでたし!」となり
「これで この話も終わりだな」と思ったら
最後に、もう「一展開」
ちょっとした「小ネタ」が入ることがある

そして…意外と言えるのは
このように「最後に もう一ネタ」が
ある話というのは
全体的にも面白いものが多いということ.

言ってみれば、このような趣向って
それだけの実力と余裕がある作者だから
こそできるサービスなのかも知れない.

…普通に考えてみても
「なんとか、作るだけで精一杯」だったら
そこまでは できないわけで.

意外性


ストーリーの展開としても
分量的に見ても「これで終わりかな」と
思っていたら

そうでは無かった…というのは

「いい意味で予想を裏切る」ことであり
その「意外性」も作品の評価を高める.

…というか、たいていのストーリーには
「これで終わりだろう!」と思えるような
解決の流れってあるのだから

この「一旦解決」にこそ
「意外性」は、入れやすいとも思う.

偽終止


「音楽、曲作り」の世界でも
和音進行に「偽終止」と呼ばれる展開があって

それって言ってみれば
「これで終わりだと思ったら
もうちょっと続きます!」みたいな
意外性を感じさせるワザだったりする.

まぁ、たいていの曲は
一つの曲の中にも、幾度となく
展開が「解決」することはあるので
偽終止も 入れすぎると 効果は無くなるものだが

でも、冒頭で 素直に終止したものが
終盤では 偽終止を繰り返して
「聴く人の予想を裏切る」ように仕組む
なんてことは、わりとよくある

それは言ってみれば
「予想を裏切るため(面白がらせるため)に
作者が仕掛けを入れてる」ということに
なるかと思う

続編


大きな視点で見れば

完結したと思っていた話(作品)に
「続編」が出る…みたいな展開だって
意外性による面白さを感じさせると思う

つまり「今まで」の展開をふまえた上で
「次の展開」があるから
それは より楽しめる.

逆に言えば…冒頭に挙げた
「最後に、もう一展開」だって

「これまでの話」と無関係だったら
いかに それが面白かろうが
そこに入れる意味が分からない
(と言われてしまうだろう)

つぎ足し


つまり「もう一展開」も
その 面白がられる理屈が分かって
いないクリエイターが入れたものは

まるで「本編だけだと足りない感じだから
無理して 付け足した」かのように
見えてしまうと思う

まぁ実際に そうした品って
作者自身にも「偽の終わりで騙してやろう!」
みたいな いたずら心は ほとんど無くて

単に、作ってみたらサイズが小さすぎたので
あせって無理して付け足したのだろうが
そういうのは、誰が見たって分かるものだし、
「苦しい感じ」は してしまうはず.

2018年06月20日

効率重視

何にもならない


たとえば
「間違った考え方をしていたら
どんなに頑張っても、何にもならない」
…みたいなことが言われる.

まぁ、その通りかも知れない.

でも「何にもならない」は 言い過ぎだろう.

…というか
目くじら立てて「〜なんて、何にもならない!」
みたいに言う人って いるけれど

そういう発言を見かけるたびに
「何にもならないこと」なんて
あるんだろうか?…と
私などは 思ってしまう.

微々たる「何か」


まぁ「〜なんて、何にもならない!」って言葉は
いわゆる「強調」としての言い回しで

実際には
「それは、非常に効率が悪いよ」とか
「得られるモノは、ほんのちょっとだよ」
…くらいの意味であるとは思う.



たとえば、「間違った考え方で頑張った末に
得られるもの」だって、

失敗を体験して、おおいに反省する心だとか
自分で考える必要性や意識…など
むしろ 大事なモノが多いと思う.

たしかに、「いわゆる 何にもならないこと」
をしていたら「期待していた展開」には
ならないかも知れないけれど…

それを「何にもならない」だなんて
それこそ「意識が低い、センスが無い」
というようには、思ってしまう

あきらめ


似た感じの言葉で
「自分でコントロールできないことを
気にしてばかりしても、何にもならない」
…みたいなのも、よく言われる.

これも、普通に考えたら 全くその通りではある

でも…その 気にしているポイントが
「自分で 本当に全然コントロール
できないことなのかどうか」って
どうやって 判断するのだろうか?

ほとんどの人は、単に、漠然と、イメージで
「できそうもないや…」と思ったことは
あきらめて、パワーを注ぐ対象から外す

それが無駄の無い、賢明な姿勢だから.

…でも
できそうもないからといって、あきらめたら
それこそ、それが かなる可能性はゼロになる

「する気がないから、できない」と
いう話と全く同じで.

何にもならないか


たとえば…大昔
「空を飛びたいな!」とか
「月に行きたい」などと言う人がいても

それは全く無駄な考えだとみなされて
皆に 笑われたに違いない.

「飛ぶ努力」をあれこれとしてみても
それこそ「何にもならない無駄なことに
カネや意識をつぎ込んでるバカ」にしか
見えなかったことだろう.

…でも、そうした人が
少数だけど、いたことで、
我々は今、空を飛ぶ手段を手にしているし
月にも行けたということ

たしかに
「ほとんど可能性の無い、無駄なこと」に
意識を注ぐのは、効率の悪い
リスクも高い、損なことではあろうが

それが 本当に何にもならないと言い切れる
根拠って、意外と あいまいだったりする

効率重視


まぁ、人生って、そんなに長くは無いし
カネや時間に「余裕」がある人だって
そんなには いないから

ほとんどの人は「効率重視」であり

少しでもラクに、少しでも速く
無駄無く、欲しい結果を得たい.

何にもならないことは、
やる前から、避けたい.

気にしても仕方ないことは
意識しないように、感じないように

…みたいな姿勢を「善」として生きているのも
もっともなことだとは思う.



でも…人の生活を飛躍的に変えたり
うんと安全で便利にしてきたような
様々な「あたらしいこと、発明」とか
「発見、冒険、チャレンジ」というのは

多くの場合
「なんで、そんな箇所に意識を注ぐの?」と
そこらの人には、意味不明なコトだったり
「できるはずが無い、無謀な考え」のように
見えることだったはずだ

「常識を破る」みたいなことが
「悪事」に感じられたことだって多いだろうし

そして、それが
めでたく「かなった」ら、
それは 報われた感じにはなるが
そもそもその成功率は非常に低く、
多くの場合は、実際に「ムダ」に終わり、
「それ見たことか…」と言われるのだろう

でも…それって、本当に
「何にもならない(ならなかった)」
ということなんだろうか?

意外と
「効率重視」な姿勢こそ
「何にもならない」
って 思わない?

2018年06月19日

魅力をつくる

アクセサリ


「魅力的な人に、見られたい」と思ったら

いい服(装)や、アクセサリ、腕時計や
バッグなどのファッションアイテムを
買う(欲しくなる)…ということはありそうだ

実際に、人の「魅力」って
ある程度は 金で買える部分もあるとは思う

センス


でも…どんなに高級なアイテムを買っても

それが自分に 似合っていなかったら
「つけていないほうが良かった」ことになり
人も、アイテムも、台無しである.

あるいは…
シャツとズボンの配色が良くない、など
「持ち物同士の 組み合わせ」によっても
見栄えや魅力の度合いは 全然違ってくる.

…というか、
威力の高い、高価で目立つような
アイテムであればあるほど
当人の「センス」が 魅力に直結するだろう.

作れる魅力


別に、お金をかけなくたって

今持っている服やアイテムの
組み合わせに配慮したり、
「ちょっとひと工夫」するだけでも
イメージを良くすることは、できるはず.

人のイメージ


あるいは、持ち物や服装によらなくても

「姿勢」や「振る舞い」が美しいということで
人のイメージは、結構変わるし
習慣、クセ、言動なども
その人の魅力に、大きく影響している

多少、顔などが栄えない感じだって
イキイキとふるまっている人は
魅力的に感じられて モテる…なんてことだって
よくあるわけで

人の魅力って
その人の 考えや感じかたや
ふるまい、行動次第でいくらでも変えていける

作ったモノ


素晴らしい品を作ったり、
偉業を成し遂げた人は

世間の人々から、その自作の名作や偉業と
結びついたイメージとして見られるものだ.

つまり
「こんなスゴいことができちゃった人」
という 良いイメージが
作者の「飾り」のように作用して魅力を上げる

要するに、クリエイターって
自分を飾るような 魅力アップのアイテムを
「いいモノを作ることで」
「いいコトをすることで」自作できるのだ



まぁ 魅力的な結果を出すためには
それなりに 作者が
優れた観察力やセンスを持って
「誰もが魅力的だと思うような理想像」を
思い描けるだけの能力や、
それを実行する程度の実行力が必要ではある

つまり
魅力的な人になることと
魅力的なモノが作れるようになることって
ほとんど同じ意味ではないのか
と思う

あとがき


「魅力」って、「作る能力」のことかも.