2017年02月25日

元凶

豊富なメニュー


「Aにしようか、Bにしようか…それとも…」
と、迷うのは

「良さ気な選択肢が多いこと」が元凶である.

多くの人は「豊富なメニュー」を
「喜ぶようなこと」だと感じていると思うが
それも「考えよう」か「程度問題」ではある.

あまりにも豊富すぎるメニューは
ひととおりチェックするだけでも
かなりの作業となり、
人の意識やパワーといった各種のコストを
ムダに使わされるわけで.

早々に除外


「明らかに、全然関係ないモノ」や
「良くないモノ」「悪いモノ」などは

見た途端に「見る価値無し」と判定できて
相手にしなくて済み、
気をとらわれたり、意識を邪魔することも無い

「即、いらないと分かるモノ」を
いかに沢山見ようが、
それらは、早々に 意識から除外できるのだから
それは ほぼ無害である

迷いの元凶


そういうのと比べると
「一見、すごく良さそうなモノ」
というのは、

人の気(意識)を、逸したり、奪ったりして
時に、人生を狂わせる元凶にも なりかねない


まぁ、それが「当たり」ならばラッキーだが
「パッと見が、良さそう」というだけで
それが 当たりかどうかは分からないわけで

「本当に、自分にとって最善最適な良いモノ」と
「一見、良さそうに思えたというだけのモノ」は
その人にとって、
正反対と言えるほどの展開をもたらすわけで

良さそう


特に、「良いモノだと長いこと信じていたのに
そうでは無かった!」…という展開は

人の多大なパワーや時間をムダに使わせる
最悪なモノだと言える

つまり…「最悪」なモノというのは
「誰もが、悪だと、即時に分かるモノ」
のことでは無くて

一見すると、素晴らしいモノに見え、
しばらくの間は そこに魅了されているが
そのうち「本物では無い」と分かるモノ
のことのほうを言う

難しい見極め


そして、こうした
「本当に良いモノ」と「良さそうなモノ」の
見極めは、難しいこともよくある

…というか、見極めが難しいからこそ
それは人を惑わし、狂わせるほどの
「極悪」と言えるわけだ

考え


このことは、偉人や成功者などの
立派な「思想、発言、生き方」などにも言える

偉人の生き方や言葉は
多くの人が認めているように
間違いなく、素晴らしいモノではあるが
でも、今の自分にとって
採り入れると良いのかどうかは、また別である

それが「間違いなく、素晴らしいアドバイス」
だとしても、自分にとっては
「もっと別なところ」に目を向けるのが先決で
それは「時期尚早だ」ということだってありうる

その人にとって、
その素晴らしい言葉は、意識を惑わす
「害」にしかならない.

…そういうことを考慮に入れた上で
世の中に膨大に出回っている「いい言葉」を
吟味できる人など、滅多にいないわけで

厄介なモノ


つまり…世の中には
「素晴らしいモノや言葉」が
たしかに、沢山、あるとは思うのだけれど

だからこそ、ほとんどの人にとっては
それが「良さ気に見えちゃう」からこそ
「戸惑う元凶」「気が散る元凶」にも
なっていると思えてしまう

以上をふまえて、今日言いたいことは
「良さ気なモノが沢山ある」という
現実(事実、状況)が、

実は 一番厄介なことなのではないのか
ということ

充実した人生?


このことを認識もしてない人は
結構いると思うけれど…

実際、「良さそう」だからといって
偉人の思想の本とか、名作、名曲などを
手当たり次第に収集して、
心を揺らし、奪われる「だけ」な人が
いかに多いことか.

それはたしかに、退屈はせず、
何だか充実した人生を送っている気分にも
なれそうではあるが

単に、人生を複雑で、自分不在な
ものにしているだけではないのか…と
思わなくも無い

あとがき


本当に好きなモノや自分のテーマを持つ人は
外部の「良さ気」を見て回ってるような
ヒマも無いと思う
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみよう

2017年02月24日

自分の客観視

自分の客観視


「自分を 客観視してみよう」と思ったら

それは
「自分を外から観る」ようなイメージを
持つ人が、多いと思う.

たしかに「客観」という言葉は
「主観」の逆のイメージだから
「主観の主体である自分」を、「外す」
ことのように 見えなくもないわけで.

客観の持ち方


でも…普通に考えれば分かることだが
「考え、視点」から
(考えている当人である)「自分」を外すことは
理屈として、ムリである.



これは、今日、言いたいことでもあるのだが
私が思うに
「自分の客観視」というのは

自分の内部に、深く深く入り込んで
徹底的に「自分のこと」を感じ取ることで
できるものだ
と思っている.

本当の客観視


つまり…自分の客観視というのは

自分を「外から観る」のでは無くて

たとえば 自分が普段は意識もしていないほどの
「自分の無意識の反応や感じ方」にまで
フォーカスして、
「何で、自分って、こうなんだろ?」
と考えてみることで、できると思う.



あるいは、自分が持っている
「こだわり」や「とらわれ」「先入観」
などを「除外してみる」のでは無くて
むしろ、ひとつひとつ、じっくりと点検して

「何故、自分は、そのような考えを
持っているのか?」と考えてみることでできる

要は
自分の客観視というのは

何故、自分の主観が、このようであるのか?
を、観察や点検、分析してみること
でできる.

「外からの俯瞰」の視点では無くて

自分と とことん向き合って
「深層にまで入り込む視点」を持つことで
客観の眼って、持てるのだ

表面的な客観視


もし、客観視をすることが
「自分の主観を除外や無視する」ことだったら
それって、すごく表面的な
安易な結果しか 得られなくないだろうか.

多くの人が、たいした客観視が出来ていないのは
そういう安易な客観視でしか
自分やモノを見ようとしているから。
…いや、「見ないようにしている」からか



…というか、まぁ
「自分の主観を除外や無視する」ことを
言うのだとしても

それって「自分を知ること」無しには
出来ないわけで

意外だと思うかも知れないけれど…
どう考えようが
「自分を知ること」こそが、客観視のキモなのだ

2017年02月23日

好かれる理由

似た者同士


人が、人を好きになる…という際に
「似た者同士が ひかれあう」ということはある

たしかに、同じ趣味や、嗜好を持つ人同士は
共感のネタも多いし、安心感もあるわけで
このことは、誰もが納得できるだろう

違うモノ同士


しかし一方、
「お互いに、自分に無いものを持っている」
からこそ、ひかれあう…なんてこともある

たしかに、もし相手が
「全く自分と同じ」だったら、出逢う意味も無く
退屈であるはず.
期待感などは「未知の部分、自分に無い部分」
から発せられるわけで

好かれる流れ


そのように考えてみれば、分かることだけど

実は、相手を好きになるかどうかの理由って
「似た者だから」でも、
「自分に無いモノを持ってるから」でも無い
.

まず最初に、どこからか、雰囲気などから
漠然と「好感」を持ち、
「好意的な目で相手を見る」意識を持ったから

相手の「自分の似た箇所」とか
「自分に無い良さ」に目を向けたくなった.

そして、人は 見たいモノを見る
(この場合は「相手の良さ」)から、

その「見つけた特性」を「良さの理由」で
あるかのように後付けで考える…というわけだ

何もかもが好き


だから…たとえば相手の
「何もかもが好きだ」と感じるのも
実は「全く同じ」理屈で

その人は、相手に、まず強い好感を持ったから
あらゆる特性を「好意的に」解釈する
流れとなったということ.

あらゆる要素に良さを見ようという姿勢で
相手を見るから「何もかもが好き」と
感じて(思いこんで)いられる.

それは、好感の「理由、原因」では無くて
「結果」
なのだ.

どう解釈したいのか


本当は、あらゆるモノ、あらゆる要素に
「良さ、欠点」は、あるものだし

ある一つの特性が「良さ」か「欠点」かは
その人が「どう感じたいのか」という気分で
決めている部分も かなり大きい.

本当は、好き嫌いの本当の原因は、
もっと「理屈以前」のところで、決まっていて

好感を持った人は、その良い面を贔屓目に見る
嫌悪感を抱く人は、その何もかもを悪く
見ようとして、
この「最初の感触から来る思い込み」が、
後で その評価が覆ることを 難しくしている.

「ジャンル」好き


たとえば、音楽のジャンルなどで
「私は ジャズが好き」とか「テクノが好き」
などと 特定のジャンルを好む人は多いが

こういうのも自己暗示に近いモノではある.

実際は、その「こだわりの目」があるからこそ
良し悪しの審査の目も厳しく、
ごく一部の「お気に入り」だけを極度に好いて
その「少数のイメージ」を、
ジャンルのイメージだと思いこんでいる.

テクノが好きだと言う人は
「お話にもならないようなつまらないテクノ」も
膨大に聴いてきた人だろうに.

どんなジャンルだろうが スゴく面白いモノは
必ず「ある」けれど、少数派なわけで.

ただし、テクノを好む思い込みを持った人は
テクノ音楽を「好意的、贔屓目に」見るから
多くのテクノな曲の「良い部分」に
優先的に目を向けて
「やっぱりテクノは最高だな」と
思いやすくなっている…ということは言える

思い込み


一方「嫌いなジャンル」というのも
ほぼ「思い込み」でつくられている.

本当は「偏見無しに」よく見てみれば
嫌いだと思っていたジャンルの中にも
面白く素晴らしいモノはあると分かるはずだが

自分の嫌いだという思い込みが
そこに 目を向けることの邪魔をしている

つまり
「見る前から嫌いだと思いこんでいるから」
「嫌い」ということ

そして、そのような人は
嫌いジャンルな曲の「つまらない箇所」
のほうに、優先的に目がいくので
「つまらない理由」も、持ちやすくなっている

あとがき


好き嫌いの理由として、
当人が語る、その「要素」のほとんどは
後付けによる、ウソでしか無い.

「まず、好意的な目を持つことになった理由」を
的確に語れる人など、ほとんどいない.

でも…クリエイターは
それ(今回は語っていない、良さの本質)を
狙って入れることを考えなければいけない

そのためにも、まずは
今日、書いたような「誤解」を
解いておく必要は、あるかと思う(から、
こういうのを今日は書いてみた)

2017年02月22日

学びの見極め

合っているか


これまでも何度も言っていることではあるが

誰か、偉人の生き様に
たとえ「激しく感動した」からといって
自分も 同じようにするのが良いとは限らない.

偉人の教えや理念に
「腑に落ちる感覚」や「心の底からの納得」が
あったとしても、
その「生き方、考え方」が
たとえ 大偉業の裏打ちのある本物だとしても

それが、自分に「合っている」保証は無い.

自分の「全て」を
その人と、同じにしない限り、
「ある方策、考え方」は
同じようには 機能しないわけで.

そして、「合わない教え」を、採用しても
苦しかったり、状況が悪くなったり…と
ろくな展開には ならない.

合っていなくても


ただし、自分とは全く「合っていない」ような
考え方の人の 生き様や考え方からも
「得られるモノ」は、沢山ある.

たとえば、自分が「けしからん!」と
思うような、ヒドい人からだって
「反面教師」という形で、
何か、ヒントを得ることはあるわけで.

だから「自分とはタイプが違う」からといって
無意味なわけでは、全然無い.
ただ「無条件に見習うのは危険」というだけで

学びの見極め


以上をふまえて、今日、言いたいこと

自分に「合ってる」ものからも、
自分に「合っていない」ものからも、
人は、学ぶことができるけれど

自分に「合ってる」ものからの学び(方)と
自分に「合っていない」ものからのそれは
全然違う.

何か「たいしたもの」を見た際に
まず、それが「自分にとって、合ってるのか」
を、見極めた上で
それを そのまま採用するのか
それとも、考えや行動の「ヒント」にするのか
を、決めなければ

その学びは、効果的で無いか、最悪 逆効果か、
単なる「気分転換」になったに過ぎないだろう

見極め能力


そして、言えるのは
この「見極め」って、実は難しいということ

だって多くの人は
「学び」について、たいした経験も無い上に、
自分に向き合ったことも無いので
「自分のタイプ、特性」についても
良くは知らないのだから

「合ってるかどうか」を
判定する材料も 技術も無いからだ

だからこそ、ほとんどの人は
「何だか 良さそうな言葉やノウハウ」
があったら、すぐに引き寄せられて
無条件で 採用したがり、
自分の世界を「ごちゃごちゃに」してしまいがち

それらの多くは、
「自分」や「外部の要素」の 方向性や特性を
しっかりと把握できていないからだと私は思う

成長と見極め


まぁ、子供や学生のうちは
そんな 高度なことを言っても仕方がない.
だって、子供は 自分では 親や教師を
選べないものだし.

最初のうちは、ほぼ無条件で
周囲にいる「大人」を見習う対象として
過ごしていくしか無い.

しかし…大人になるにつれて
ある程度の「要領」を得てきたら

人は、自分で、自分にあった
「本や教師、見習うべき思想」を
自分なりに取捨選択していくべきである

だって、合わない人や思想についていっても
時に「マイナスのほうが大きい」ことにも
なりかねないからだ

「合ってる」考え


私の場合、たとえば「教師」だったら、

その人が「教えている内容」以上に
その人の、生き方、考え方、姿勢や雰囲気
などに意識を向けて、判断材料にする.

…というか、
「どんな人物なのか?」に対したら
教えている「内容」なんて
ほとんど どうでもいいことである.

様々な教え


特に、様々な情報が出回っている現在は
以上のような「見極め」が無いと
自分を「確立」していくことも難しいと思う

だって、人により、本により
「立派な意見や主張」は、様々であり
正反対なモノさえ、多いので

判断の基準も持たないうちは
「どれが正しいの?」「どっちが正しいの?」
…と なってしまうから.

これらは、どれも ある意味正しいのだが…
でも、大事なのは.
「自分が採用すべきモノなのかどうか」の
ほうである

まぁ、極端なことを言えば、
本当は、どこの誰の意見だろうが
「ヒント」と思うべきなのだが

あとがき


私がこのブログで毎度書いてことも
読み手にとっては「ウソだらけ」かも知れない

でも「どこから、どのように学ぶのか」と
考えている人ならば、どんなウソからだろうが
自分なりに得るモノを見いだせるはずだ
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2017年02月21日

苦行の回避

辛かった思い出


学生時代、先輩や教師から
貶されたり、怒られた経験を
「美談」であるかのように語る人って
意外といるものだ.

…というか、そういう
「インパクトの強い出来事」こそが
人の心に「思い出」のように残るわけだし

辛かったのは 大昔のことであって
今も、その影響を受け続けているというわけでは
無いのだから、
それが 恨みのように残っているわけでも無い.

その時の仲間(同士)等がいたら
その思い出は共有もできて、
一緒に語るには、格好のネタにもなると思う

だからこそ、今、そういう経験は
「いい経験だった」かのように感じられる
ということなのだろう

辛さの必要


そう思うので…まぁ
イメージ的には
「大昔の辛い経験」=「良い経験」
として 感じられるのは、理解できるけれど

「辛い経験」が、本当の意味で「良い経験」と
言えるかどうかは、甚だ疑問である.

…というか、辛くて
修行を「断念、辞めちゃう」人は
それなりにいるはずで
その人たちにとっての、その経験って
「大損」でしか無い



一方、それが本当に
「自分の成長にとっていい経験」で
あったのだとしても
そこに「辛さ」という成分は
必要だったとは 私には思えない.

たしかに、苦しいほどの修行をすれば
多くのモノを得るだろうとは思うけれど…
でも、同じ体験を
「辛さ抜きで」できていたら、
もっと、脱落者も少なく、効率的に
良い影響を与えることが出来たに違いないのだ

波乱万丈の人生


テレビや本のネタとしては
「逆境にも負けずに成功をつかむ」展開は
人の心をつかむストーリーであるとは思うし

そのような「心が強い人」は
確かに、優れた面や魅力を持っているとも思うが

でも、人生って「見世物」では無い.

まぁ、たいした人物になるにあたって
数々の「辛さ」は、
「あっても仕方ないこと(つきもの)」では
あるかも知れないけれど…

「あったほうが良い」とは 思わない

仕事


日々の「仕事」の分野にしてみても

仕事に対するイメージが良く無かったら
いい仕事など できるわけも無い

クリエイティブな分野であれば なおさらだ



もちろん、仕事や修行である以上、
「苦しい時、頑張るべき時、嫌なこと」は
…いくつも あるものだとは思うけれど

それらが「あったほうが良い」とは思わないし
すすんで飛び込むことは無い.

…というか、その道のプロならばこそ、
「嫌、苦しさ、辛さ」などは 極力、回避して
「自分の仕事に対するイメージ」を
良い状態に 守る必要ってある
はず.

まぁ、何かから逃げることで
失うモノ…というのもあるとは思うが、
そこから逃げたぶんは、
別の「積極的に取り組めるようなこと」から
得たら良く無いだろうか

多大な努力


他人から見て、
ありえないほどの「苦労や努力」を
続けている…という人も

当人は、それが
「好きなことだから」
「嫌なことでは無いから」
日々、続けていられる…ということはよくある

他人が それを「辛く苦しい修行」のように
見ようが、自分は 別に そうではないからこそ
それは出来る.

本当に それが辛く苦しいか?は
実際「イメージの問題」なわけで

だからこそ
「イメージを悪くしない心がけ」は
人の成長にとって 重要であると考える
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心の持ち方