2016年12月03日

究極の教え

本が言うこと


本屋に行けば
「変わること」「進化や進歩」を目指す
みたいな啓発書があると思えば
その逆に
「無理しなくていい」ことを
説くような本もある.

…まぁ、本というのは 基本的に
「目的が明確」であるものだから
どんな本も、言うことは「極端」なのは分かるが

だからこそ、どの本も
鵜呑みには出来ないなぁと思うばかり.

適度なつきあい


まぁ…死ぬほどの苦労や努力をしたり
今の自分なんか殺して、自分を変えたり
「進化」して、スーパーマンみたいなものを
目指すような意識も

時には 必要なのかも知れないし、
あったら「いい経験」になるかも知れない.

でも、そんなのを「真理」のように
思っているのだったら
それは かなりヒドい「宗教」と同程度である

(…それ以前に、そんなに入れ込んでいたら
まず、つまらないし、疲れてしまう)



逆に、「今のままでいいのだ!」という教えも

…そういう時が多くあって然るべきだとは思うが
ずっと、常にそうだったら何の成長も無いし、
それ以前に「つまらない」のではないかと
思ってしまう.

つまり…どのような「教え」も
それが適当か必要な時もあれば、
あまり気にしすぎないほうが良いこともある

危険な「極端」


このように
「絶対に、常に採用すべき、ありがたい教え」
なんてのは、ありえないと私は思うのだけれど

逆に言うならば
その中身が どのようなモノであろうが
「極端」な考え方というのが
一番 危険だ
ということだ

普通に考えたって
「盲信していればOK」なことなんてあったら
今頃 誰もが幸せであるはずなのだから
これが いかに「ありえないこと」
「無意味であるか」分かるだろう

究極の教え


以上をまとめ的に書くと…要は
「究極の教え」みたいなものが
存在すると思うこと自体が、間違いである

各種の啓発書などは
「いいこと」「いい考え方」を
提示してはいるけれど

本や主張、作品というのは
「極端なこと」を言ってこそ理解されるような
性質の品なのだから
その「偏り、不正確さ」は、仕方ない.

それを「どの程度、どのように」
解釈し、採用するか?は、
受け取った人の問題である

勝手に「教え」


あるいは、尊敬する人などが
ちょっと「真理っぽいこと」を言ったら

それを勝手に
「ありがたい教え」や「真理」のように
受け止めてしまうような人というのもいると思う

本や雑誌などでも
成功者の言葉や分析を
「あたかも成功の秘訣」であるかのように
無責任に書いているようなモノも多くあるが

こういうのを間に受けるような
「考え方」自体が、成功からは遠いもので
あるように思う

あとがき


…というか、究極の教えみたいな
「安易なモノ」に たよってる人がいたら

その人を見て
「ああ、素晴らしい人だな!」と思うだろうか?
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2016年12月02日

欠かさない練習

練習は毎日


「練習は 毎日、欠かさずしないといけない」
…というような人は、結構いるものだ.

「毎日やらないと、力にならないよ!」
などと 口うるさく言う教師もいるものだし

「一日 練習を怠ると、
取り戻すのに何日もかかる」…なんてことを
言う人もいる



そして実際に
ちょっと 練習を怠っただけで

「能力が低下した感じ」になったり
「取り戻すのが大変」になる人というのが
いるようである.

…というか、一流のプロにも
そういう「実体験からくる持論」を
主張する人がいる.

能力の安定度


でも、それらのほとんど全ては
「勘違い」である.

ある程度、鍛錬を積んで高まった
人の「能力、実力」というのは
数日、鍛錬を怠ったくらいで
ただちに低下するようなモノでは全然ない.

実際に、我々が習得している
「泳ぎ」や「箸の使い方」「日本語」などの
能力は、相当に高度なワザであるとは思うが
数日どころか、数ヶ月、いや、数年ぶりでも
たいした遜色は感じないものだ.

能力低下の勘違い


でも実際に、一日、鍛錬を怠ったくらいで
能力低下を実感してしまう人は いるものだ

それは何故か?というと

その人が
「練習を一日でも怠ると、能力が低下する」
と、信じ込んでいるからである.

だから、一日でも練習を怠ると
「練習を怠ったこと」が気になって仕方なくなり
自分の「実力の低下」を観察しはじめる

…そのような「雑念ばかり」でやっていれば
当然、できるはずのことも
上手くできなくなるに決まっている.

そんなわけで、
「毎日やっていないと、力にならないよ!」
…みたいなことを強く信じている人ほど
実際に、一日欠いただけで
回復するのが大変になってしまう

有害なコンセプト


まぁ、もちろん
練習は しているほうが良く
練習を怠るのは、勿体無いことではあるが

でも…「してない、しなかったこと」を
気にしてしまうことは
それ以上に、人の実力を低下させる.

実際、練習不足に あせってしまうよりは
練習不足なんて気にせずに
能力向上に集中している人のほうが
上達は速いわけで.



そして 人というのは、無意識にでも
「自分が信じていること」が正しくなるように
行動してしまうところがあるとも思う

そう考えると…
「一日でも欠かしたらダメなのだ」
という、一見 有用っぽい教えって
実は、かなり「有害」
であると分かる

練習量


もちろん、最低限必要な
「練習量、練習頻度」というのは
あるとは思うが

そのような要素は、どう考えても最重要では無く
これを 気にしすぎるほうが、有害である

だから…
「毎日 欠かさずやるのが素晴らしいんだ」とか
「一日でも欠かしたら意味が無い」
みたいなことを 真理であるかのように
言う教師は、相手にしないこと.

そんなコンセプトを信じていたら
本当に、そうなってしまうから.

2016年12月01日

ヤル気を見せる

ヤル気を見せる


自分で、「この仕事をしたい!」と
心から 強く願うのであれば

上司や客に「ヤル気があるところ」を
うんと誇張して、わざとらしく、
演出まで加えて「見せる」のが
効果的であるかも知れない

なぜならば、多くの場合
同じ能力の人に、同じ仕事をさせるならば
「自分からすすんでやりたいと思っている人」
のほうが、質量ともに良い仕事を
するものだからだ.

だから「見込まれたい」ことについては
「ヤル気を(わざと)見せる」のは
悪くない方策だと、ちょっとばかり思う

ヤル気のあるヤツ


しかし…普通に考えたら分かると思うが

何事にも、いつも積極的で、笑顔で
すすんで引き受ける
…みたいな人が、もし 本当にいるとしたら
これは 大変に「気持ち悪いイメージ」に映る

だって、そんな不自然な人間は
現実には、いるはずが無いからだ.

普通な時


…というか、誰だって
「ヤル気が、わいてくること」よりも
「ヤル気なんて、特に無いようなこと」
のほうが、はるかに多いものである.

だから、たいていの人は、ほとんどの時間
「普通」な感じにしている.

もし 一日中、ワクワク、意気揚々としていて
何事にも積極的に取り組むような
「おめでたい」人がいたら…
まぁ 悪い人とは思わないだろうが
あまり関わりたくは無いものである

ヤル気の無さ


そして、今日、とても言いたいことは
「ヤル気」なんてのを見せることを
考えるよりは

「ヤル気の無さ」のほうこそ
積極的に 見せたほうが良い
ということ.

つまり
「私は、これは全然ヤル気が無いですよ〜!」
ということを
分かりやすく、周囲に伝えることで

周囲からは、
「コイツは、これについては 全くダメだな」と
思ってもらえる.

そうすれば、今後、ほとんどの場合
自分は、その仕事を避けることができ、
貴重な時間やパワーを
「自分こそがすべきこと、したいこと」の
ために 使うことができる.

それは、自分にとっても、
周囲にとっても 幸せなことであると思う

「短所」の演出


そう思うので、自分のためにも 組織のためにも

自分の「短所、向かないこと」こそ
積極的に 周囲に伝えたいものである

向いていないことは、
もっと それが向いていて、
しかもヤル気がある人の仕事にしたほうが
はるかに良い.

代わりに、自分は
自分に向いていることを積極的に引き受ける.

それが、組織が 組織でいる理由であるはず

ヤル気は、どうでもいい


ついでに言うならば

「ヤル気が出ること」というのは
わざわざ演出的に「ヤル気ありそう」な
感じにしていなくても
自然と「いい仕事」「良い結果」を産むわけで

普通にしているだけでも
「コイツは、これが得意なのだな」
ということは、充分に伝わるものであり、
ヤル気あることをしているだけで
そういう仕事が 自分に振られるように
なっていくものである.

だからヤル気を、わざわざ「見せる」
なんて、考える必要は、ほとんど無い

「ヤル気の無さ」こそ


一方、「ヤル気の無さ」のほうこそ

積極的に、誇張や演出を加えてでも
「見せる」べきであると、個人的には強く思う

間違っても
「コイツは、何をやらせても よく働く、
便利なヤツだ」とか
「何にでも ヤル気があるヤツだ」などと
思われたら、人生、地獄である.

あとがき


たまに「本気でも無いのに
ヤル気が満々であるかのように見せる」
ような人が、いるように思うが

そういう人は、無理を背負い込んで
一生を「したくもないこと」に
注ぎ込むことに、なるだろう
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2016年11月30日

「入れてない」が入る

テニスゲーム


まだ、ファミコンどころか
インベーダーゲームも登場していない頃の
「黎明期のテレビゲーム」に、

「ブロックくずし」とか
「テニスゲーム」と称したモノがあったと思う

それらは、「ブロック」とは言っても
「単に 四角く塗りつぶしたドット」だったし

「テニス」とは言っても
グラフィック的には「棒」であり
それは、ラケットを模したモノなのか
それとも 人間のつもりなのかも
分からないような感じであり

そこから「テニス」をイメージするのは
結構な 想像力が必要であった.

記号的な世界観


しかし、人間は そのような
「極度に単純化されたグラフィック」からも
「独自の世界観」をイメージして
それを味わい、価値だと思う性質を持っている

まぁ、それを「素晴らしい」と
思ったかどうかは別として

当時、「記号的な、電子回路が作り出した映像」
を、自分の手で操作して遊ぶ…という体験は
結構な「斬新で 独自の世界観」を持つ
イメージを想起させたに違いない.

独特な世界


初期の ファミコンやパソコンゲームなども

グラフィック的には、リアルな表現は出来ず、
真っ黒な背景に、「ドット」や「記号」
「線」などが カクカクと動くような
モノであったが

でも、そのような
「電子的、記号的」な世界というのは
まさに、コンピュータでしか得られない
「独特の世界、独自の世界感」であったと言える



というか、それらは
「結構 強烈なインパクトがあった」とも思える

だって、我々の日常に
そのような世界は 全く、ありえなかったから

世界の作り込み


一方、今時のゲームマシンやパソコンは
昔とは比べ物にならないほどの
処理能力を駆使した表現が出来るので

作り手側としても
「どこまでも細かい表現」や
「リアルさ」
または「独自の世界」を
追求することが出来るようになった

言い換えるならば
「どこまでも、そのソフト独自の
世界観を 作り込んでいける」ように
なったはずである

実際に
「おお! ここまでやるか!」と
驚くほどの世界観を持つソフトがある

必ず入る「世界観」


しかし、今日、言いたいことでもあるのだが
どんな環境や、状況であろうが
「世界観」というのは、必ず入る
ものである

今時のハードウェアが
「とことん、作り込みを追求できる」
のだとしても、

制約の多かった大昔のソフトウェアよりも
「世界観の分量やインパクトに乏しい」
ということは、全く無い.

もしかしたら、
ものすごく単純化せざるを得なかった頃の
「独自の表現」のほうが
ある意味「斬新」に感じられ、
強いインパクトを持って 長く人の心に
「あんな感じ」を 残しているかも知れない

杜撰な世界観


同じ理屈で言えば…

たとえば、クリエイターが
世界の作り込みに「手抜き」をして
非常に「安易で無難」な世界になったとしても

それを味わう「受け手」は
その「杜撰で、安易な世界」を
しっかりと受け取ることになる.

「入れたつもり」は 無くても
…というか、入れたつもりが無いからこそ
「杜撰さ、安易さ」は、タップリと入っていて
受け手は、これを しっかりと感じ取り、
時に ガッカリするというわけだ

入れてないが入る


つまり、クリエイターが
「どこまで考えたか?」というのは、
それなりに、ちゃんと受け手に届くものだが

逆に、「たいして考えていない」ことも
作品に、しっかりと反映されており、
受け手が これを受け取る.

つまり
「入れない」と
「入れてない感じ」が入る

「何も(あまり) 入れていない」と
受け手は
「何も(あまり)感じない」のでは無くて

「何も入れていない感じ」を強烈に感じて
「手抜き感、安易さ」といった
マイナスイメージを 受け取ってしまう

あとがき


もう少し言えば

安易に 要素を「入れただけ」だと
たとえ「色々入っている」のだとしても

受け手は、
配慮や考えの「無さ、足りなさ」を
まずは 受け取る.

2016年11月29日

主役が脇役

司会者


長く人気を保っているような
テレビやラジオ番組には

まず例外無く「いい司会者」か
「トークのうまい中心人物」がいるものだ

…というか、番組の視聴率って
「司会者次第」なところが結構あって

同じような内容(企画)でも、
司会者がダメだと、全然面白くないし
逆に、たいした企画じゃなくても
司会者の魅力だけで「持つ」こともある

「ネタ」と人気


ニュース番組などは、
その日の放送内容は、
番組のスタッフが企画しているのでは無くて

その中身は、全て「外部由来」であり
どの局の、どのニュースも
ほとんど同じことを放送するというのに

ニュース番組の視聴率、人気も
「アナウンサー、司会者」が誰であるか?に
大きく左右されるものである

つまり
「ネタ」が、何であるか?は
人気とは、ほとんど関係が無くて

「誰がいるか」が、非常に重要
ということ.

トーク番組


テレビやラジオの、特に深夜番組では

語りの上手いタレントが DJをやったり
視聴者からのメッセージを読みながら
進行するような「トーク中心な番組」が
よくあるけれど

これも…番組が面白いかどうかは
「面白いネタや、コーナー(企画)があるか」
ということよりも
「誰が パーソナリティなのか」のほうが
ずっと重要であると思える.

実際、「人」が面白ければ
たいした「ネタ」なんて無くても場が持つし

人に好感が持てるかどうかも
「ネタが面白いかどうか」は
ほとんど関係が無い.

…というか むしろ
「ネタが たいして無いのに 聴いていられる」
という能力こそが、たいした能力なわけで

料理


ちょっと分野としては離れるけれども
たとえば「料理が上手い」みたいなことも
以上のことと 似ている面があると、私は思う

つまり、本当に料理が上手な人というのは

「たいしたネタ、珍しいメニューや 高級食材」
などが無くても、
「おいしい!」と思う料理を作れるものである

極端なことを言えば、一流の料理人とは
何の変哲も無い、単なる「ご飯」を作らせても
美味い!と思えるし、
野菜を 包丁で切っただけでも
「美味しいカット」を感じさせてくれる

音楽


一流の「ピアニスト」なども、
別に、高度な曲を演奏するわけでは無くても

ポロロン…っと、ちょっと音を出してみただけで

誰が見ても「手つき、指の動き」が
常人とは違う「一流の手や指の動き」をしている

それを見ただけで
「おお!」と 驚きがあって
「スゴいモノを見たな!」と感じる.

このように、
たいした「ネタ」なんて無くても、

スゴい人は、スゴいと分かるし、
その価値を高く買うことが出来る.

ネタにたよる


一方、たいていの人は
「ネタやテーマが命!」というくらいに
ここにこだわり、
「アイデア出し」に 懸命である.

つまり、常人は
ネタが無いと、間が持たず、
「面白いネタ」
「魅力的なタレント」
「興味深い謎」…などの
「ネタや主役こそが、コンテンツの価値を産む」
と思っている

でも、そのように考えてしまうのは
実は、一番重要なモノが
欠けているからでは無いのか