2012年01月28日

「自由」という狭い世界

ゲームが好きな人


現在は,店に行けば,実に多くの
ゲームソフトが売られているし
多くの作者やメーカーが,今も
新作を,続々と作り出している.

ゲームについての 雑誌や 二次的な創作物や
ファンのコミュニティ的なネット上の掲示板や
実際に人が集まって楽しむような場もある.

だから「ゲームが好きな人」は
一日中,ゲームをしていても飽きないし
一年中,ゲームのことばかり考えて生きていける
ほどの「ネタ」が世界には豊富にある.

ゲームの世界が,ここまで広がったからこそ
ゲームの世界の中「だけ」しか見なくても
飽きずに,生きていける.

ゲームも好きな人


一方,私が子供の頃
(ファミコンも無い頃)だったら

情報もソフトも乏しかったため,
さほど「ネタ」も無く

いくらゲームが好きだとはいっても
一日中「もつ」ほど…では無かっただろう.

そして,自動的に
「もっと他に見るべきモノ」にも興味が出て
世の中の様々なモノに 目を向ける機会も
多かったに違い無い.

選べるコンテンツ


ネットが普及したおかげで
世界中の 様々な「面白いモノ」を
いくらでも,タダで,簡単に
選んで見ることができるようになると…

多くの人は,
「様々なモノ」を見ようとするよりは

「自分が好きなモノ,興味あるもの」
ばかりを選んでみるようになるだろう.

それだけでも,見切れないくらいの情報量が
あったら,もうそこから出る動機も無い.

しかし…
「好きなモノだけ見てる」ってのは
結構な「偏り」であり「狭さ」ではある


選べるから…世界は広がらない.

「イヤ」の排除


「自分の好きなモノを選べる」とは

「嫌だと思うモノに,極力出会わずに済む」
…ということでもある.

ここまでを読めば分かると思うが
それって
自分の理想とする「狭い世界」に
閉じこもり,他を見ない
ような生き方に
つながる可能性も かなり高いと思う.

そして「嫌なモノから逃れる」ことは
「思わぬ良さ」に出会う確率も逃すだろうから
ますます「他の(未知の)世界」への道は絶たれる

それって「自由」だろうか?

ひきこもり


ネットを使えば,家から出ることも無しに
情報を得たり,見聞を広めたり,買い物もできる

何らかのコンテンツを作って売るなどの
対価を得る「労働」だって無理では無い.

そして,ひきこもっている限りは
「嫌な人や 面倒な目」には 極力遭わずに済み,
物事を「自分の好きに選べる」度合いが高い.

そのような「ひきこもり」なライフスタイルは
昔なら,不可能だったはずだが

今や「選択や手段の自由度が高まったおかげ」で
それも可能になってきている.

そう考えると,「ひきこもり」という生き方って
「自由度が高まった」からできることであり,
「最も自由を謳歌した,夢のような生き方」
…だと言えなくも無い.

考えてみよう


ここまでに挙げた全ての例は
本当に「自由」ということなのだろうか?

実際にも
何かの束縛や不自由から「逃れる」ことを
「自由を獲得した」と言って
それを喜ぶ人…というのが多いけれども

「何かから逃れることで得た
『自由』」というのは

結果的には
自分が活動できる範囲を
自分で「狭くする! と 決断した」
ってことでは?

あとがき


「自分にとって居心地のいい『狭い世界』から
出なくて済むようにすること」が

「自由」という言葉の定義なんだろうか?


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「求めるべきもの」 〜 2011年 12月25日
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみよう

2012年01月27日

小さなパワー

小さな声


私語の多い教室で
先生が「わざと小さな声で」しゃべると
それを聞こうと思って みんなが静まる
…なんてことがある.

わざと小さめの声でしゃべるほうが
余計に「静かにしなきゃ!」って思うし,
耳をかたむけようと注意も向ける.

…だから,小さな声には
「聞きたくさせるパワー」があるように思える

うるさいな


逆に、選挙や モノ売りなどの
宣伝カーが,スピーカーから大音量の声を
流していると…

「うるさいなぁ!」と思って
なんとかして耳に入らないように努力してしまう
…なんてこともある.

認識


もちろん,大きな声であるほうが
その存在も,内容も
「認識しやすい」ことは間違いない.

小さな声は,聞こえにくいのだから
その存在も認識されにくく,
認識されなかったら
「気にされる」可能性もゼロである.

そこは勘違いしてはいけない.

普通じゃない感


冒頭の例に挙げた
「小さい声に注目が集まる」のは
その言い方に「異常さ」を感じるからだと思う.

その「普通じゃないモノの言い方」を感じた人が
「何を言っているのかな?」と興味を持つことで
静かにし,耳を傾ける.

影響力


つまり「小さな声でしゃべること」が
聞いてもらうための秘訣などでは全然無い.

たとえば,もし,同じことを
「先生」では無くて 普通の生徒がしゃべっても
おそらく誰もかまうことなく,無視されるだろう

「尋常では無い」と思えなかったら
それは「ただの聞き取りにくい声」でしかない.

それ(小声テクニック)が有効なのは
「何かスゴいことを言いそうな人」に限る.

スゴいと認められている人は
小さい声で言うことが「興味の対象」になり
より影響力を発揮できる.
「小さい声を人が気にする理由」があるのだ.

一方,スゴく無い人は
「大声で 派手に言う」か
あるいは「別の手」を考えるしかない

理屈を見るべき


「声」の例に限らず…
こんなに小さな存在なのに
こんなに大きな存在感があるなんて!
と,感銘を受けるような
風景や作品などに出会うことがあるけれども

それは決して
「小さいこと」が良さの決め手なのでは無くて

小さい存在が「(良い意味での)異常さ」や
「影響力」「ただならぬ雰囲気」を
醸しだすことに成功しているからこそ

その存在感が 実際以上に高く見える

…ということなのだと悟るべきだ



その理屈を分からずに
それがテクニックであるかのようにみなして
これをただ「マネ」してみても

同じように上手くいくことなど
ほとんど無いだろう.

「〜なのに…」


「小さい」ということに限らず,

「〜なのに,存在感があるなぁ!」という
感銘,関心,感動って

「構成力ある作者への興味」に
つながることにもなるはずだ.

「不利な状況」を,上手く使った作品や
わざと「不利に見える状況」にしてみることで

見る人は「〜なのに…だなんて!」という感情を
楽しむことができる
(あるいは,ふりまわされる)
わけで,
これ自体がネタであると言える.

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「欠点という「品質保証」」 〜 2011年 11月1日

2012年01月26日

弱さと感度

デリケート


若くて元気な子供たちは
「健康に悪そうな,安物の加工食品」なども
平気で,おいしく食べちゃうものだが

年をとったり,病気になって
体が弱ってくると…

食べものの 微妙な成分や味などに敏感になり
「良くないもの」は 体が受けつけなくなったり
食べることで,体調や健康に影響が出たりする.

このように,
弱い人ほど「感度が高い」
ように見える.

自信の無さ


「自信の無さ」も,気の弱さという意味で同じだ

「自信の無い人」ほど
雰囲気や,他人の言動などに「敏感」であり
配慮ある行動をとるものなので

これが「感度が高い」ように見える.

本当の感度


しかし,当然ながら
健康な状態で,頭脳も効率良く働くほうが
「感度」は 良いはずだし,

周囲にビクビクしているような
「雑念」など無い,自信のある人のほうが
正しい感覚で 周囲を見ることができる
に決まっているのだから
「弱い人ほど高感度」というのは
全くの幻想みたいなもの
であると言える.

だが,どうして
そのように見えるのだろうか?

見張り役


それは…
弱い人ほど「警戒」しているからだ

弱い人ほど,自分に向ってくるモノにより
ダメージを受ける心配をしなくちゃいけない

だから,常に周囲を「監視」している.
それが感度が高いように見える原因だ.

だけど…
たとえ「見張り役」が,
異常や危険を
正確&迅速に察知できたからといって

「見張り役」の人の感度が
常人よりも高かったと思う人はいない

…それは,単に
「普段から警戒している人」なのだから

警戒心の無さ


逆に言うならば…
「強い人」は,周囲を怖がる必要を感じないから
「見ようともしてない」ということだ.

注意力は「すべきこと」に向けている.

何かに 集中力を傾けている人は
目的に関係あるもの以外のものは
見てないか,軽視している.

感度の「向ける先」が違うのだ.

弱い人


一方,「弱い人」は
「警戒することだけが全て」である.

周囲への心配や警戒をしていたり
不安などの雑念だけで動いている
…というか,動かされてる.



何か「したいこと」がある,というよりは

単に邪魔にならないように生きてる…とか
少しでも安泰に長生きするために生きる
ために「監視」をしている.

私にはそれが「保身のために感覚を使っている」
…というように 見えることが多い.

評判の監視


「自分が他人からどう見られているか?」を
極度に気にするような姿勢にも、それは言える

まぁ周囲に無頓着すぎるのも問題だとは思うが

「その観察結果を 何に使う(役立てる)のか?」
…と考えた時,

もしそれが「誰の邪魔にもならないため」なら
その人って いないのが一番イイのでは?(笑)

情報への感度


世の中のニュース、最新情報に目を光らせて、
「何か新しいことは無いか?」と監視員みたいに
気にしている人の多くにも 同じことを思う.

我々の生きる目的って『監視』」では無いし
「迷惑がかからないように生きること」でもない

だから,情報収集をするにしても…
自分が「すべきこと」を分かってる人は
それが「主眼」には ならないと思うのだ.

あとがき


今日は,
「弱さ」は,
感度を,間違った方向に使わせてしまう
という話.

人としての「感度」が高いこと、高めることは
それなりに必要で重要なことだとは思うが

それを役立てるような「目的」が
「たいしこと」では無かったら
それは パワーのムダでしかない

2012年01月25日

価値観の違い

値段


高い値段がついていないと、
高い価値だと信じることができない人は
値段に操られる

「値段」って「価値」とは違う.

「価値」とは,個々の人が 主観により
「信じている」ようなものでしかない

高いダイヤモンドも
単なる「石の一種」としか思えない人には
価値なんて ゼロ(以下)なわけで.

価値


実際に「同じ値段のモノ」がいくつかあっても
それらを同等に 欲しいと思う人などいない.

自分の,その時の状況にとって
欲しいモノは「価値を認めるモノ」
欲しくならないモノは「価値無し」だ.



「ついている値段」は
「価値」などでは全然無くて

作者やメーカーが
自分らの都合や思惑で決めて
我々に提示した「入手条件」でしかない

評判


みんなが『イイね!』と
言っているモノでないと
「イイ」と信じることができない人は
「みんな」に流される

価値は,人によって違うものであり,
価値は、自分で見積もるものだ.

価値観の違い


芸術品や映画などでも…
自分で思う「面白さ(という価値)」よりも
周囲の言葉や評論家の言葉などに
あわせちゃう人というのがいるけれど

「評価」って,別に
人同士 合わせなきゃいけないものでは無い.

…というか,違うことこそ
「自分ならではの価値観で評価している」
ということでさえある.



「間違った価値観」というのも基本的には無い.

まぁ「多くの人とは違う」程度が
自分の評価を落とすほど激しい…というのは
状況として 困ることにもなるかも知れないが.

価値の作り方


もちろん,「評判」や「賞」や
「大ヒット」などを狙うのであれば

それを評価するような「人々」に
価値観を「合わせる」か

自分の価値観を,その人々にも
「分かってもらう」努力や配慮は必要だろう.

自信


それでも,基本的には

「賞」や「ヒット」を獲得しないと
自分(の作品)に 自信が持てない
…というような人は

「外部のものに たよった価値観」に
ふりまわされている部分はあると言えよう.



「自信」というのは
自分の価値観を信じる姿勢のことを言うのだから

「賞」や「評判」で 自信を持ったり
逆に,自信を落とす…などの
「揺らされちゃう姿勢」自体が
「本当の意味での自信が無いこと」の
あらわれであると思う.

「価値観の違い」が「価値」


自分が 作品や主張や企画の形で
世の中に何かを「発表」する価値があるものとは

自分の価値観が
世の中の多くの人の価値観と違うモノ
であると言える.

世間的には「なぁんだ」と軽く見ているモノを
自分だけは「注目すべき,興味深いこと」
のように見ている…というようなモノこそ

その面白さや重要さを
皆に「分かってもらう」意図で
それを 伝える言葉や作品を作ることができる.

あとがき


「自分独自の価値観」を作品化して
それを 面白がってもらう(分からせる)
…という流れで
「新しい価値観」は 広まっていく

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「考え方の違い」 〜 2009年 2月15日
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2012年01月24日

未来のモデル

学校


小学校では
一年生は 二年生の生活ぶりを見ることで
「来年の自分が どんな風になるか」を
自動的に知ることになる.

「学校」での出来事は,
基本的には,毎年同じことの繰り返しなので

今年の二年生が
「していること」や「集団の雰囲気」は
ほとんど,来年二年生になる児童と
同じようなものであろうことは
容易に想像がつく.

未来のモデル


学校生活をしている中で
「どんな先輩が怒られているか」
「どんな先輩が誉められているか」
…なども 自然と分かるようになる.

そういう未来の自分のモデル(将来像)が
学校には 沢山いる.

このように…おおよそ高校くらいまでは
「数年後の自分や,自分をとりまく環境が
どんな風になっているか」の予想は
非常に簡単だ.

減っていくモデル


しかし,年齢が上がるにつれて

部活や,選択科目などの自由度や
専門性が上がるにつれて
「同類」や「同じ立場にいる人」は減っていく.

専門や趣味を持ち,個性を意識することは
「自分の仲間」を限定していくということだから
「見習うべき人」は,どんどんいなくなっていく

それが自然であり,

本人だって,いつまでも小学生みたいに
「画一的に扱われる,みなされる」のは
嫌なものだろうから,
そうなるべきだろうとも思える.

会社


社会に出れば,
「自分と同様の流れにいる人物」というものが
そもそも存在していない.

実際にそうだし,

たとえ大企業などで,
同じ部署の同僚や先輩が多数いようが
自分に似た立場の
身近な先輩や仲間たち…こそ,
「決して マネなどしてはいけない人」だろう


ひとつの組織に
「似てる人」なんていてもメリットは少ないし
個人としても,単なる「部品」という意識でしか
存在できないだろうから.

モデル


子供の頃は
「未来の自分の立場に似た『あの人』」を
見習えば良かったものが

大人になると
「見習う」のは…「人」では無くて

非常に限定的な「技術,ワザ」や
非常に抽象的な「意識」といったものに
なっていくものだ.

あとがき


特定の「人」を目指さないことで
あらゆる「人」から学ぶことができる
だろう
…という話.