2016年08月23日

与えている価値

教師の役目


学校の「教師」は
生徒たちに「勉強」を教え、
理解や記憶させるのが仕事だけれど

優秀な教師は、
「知識を与え、教える、分からせる」以上に

生徒に、その分野(科目)の
意義や 面白さを 実感させて
自分から 学びたくさせる(能動的にさせる)
のが、上手い
ものである

面白さを教える


つまり、教師の価値って
「勉強を教える」ことよりも
「勉強の面白さを教える」ほうにある.

だって、勉強の内容だけでいいのならば
そこらの本、参考書などでも、役は果たせるし

相手が小学生であれば、
たいていの大人は
「内容を教え、理解させること」くらいは
できるだろうから、

それだけでは
「プロの教師ならではの価値」は出ないわけで

自発的になる


言ってみれば、生徒を
「自発的、能動的、ヤル気にさせる」ところが
「プロならではの仕事」であり
「そこらの人では代替不可能な専門技術」
なのだということ.

「優秀な教師」と「凡人レベルの教師」の
「差」のほとんど全てが
ここにあると思える

クリエイターも同じ


似たようなことが
「クリエイター」という職種にも言える

つまり、クリエイターというのは
単に モノを創って、客に与える役というよりは

モノづくりを通して
人々を「積極的にさせる、熱くさせる」役目が
どれだけ務まるか…というところに
プロならではの価値がある



つまり
そのクリエイターの制作物、コンテンツを見たら
「さらに知りたいこと、疑問、探究心、情熱」
などが、湧き上がってきたり
その分野に「あこがれの気持ち」を持たせて

自発的、積極的に、その分野に
「前のめりになる」動機を与えるのが
優秀なクリエイターというものだ

与えている価値


どちらにしても「与えている価値」は

表面的には「情報、知識」などではあるが

本質的には「行動させるための原動力」
みたいなモノに違いない



もし、実質的に与えている「モノや情報」が
ウソだったり、低品質だったりしても

それをきっかけに 客の意識が高まって
「正しいこと、高品質なモノ」への
志向が強まるならば
それだけでも「たいした価値を与えた」と
言えなくもない

あとがき


そこが 単なる生産業とは違う.

クリエイターって
「客の需要を満たす」(だけの)仕事では
無いのだ

2016年08月22日

大事なもの

病気の人


たとえば「太り過ぎの人」にとっては、
「ダイエット(運動や食品、薬)のこと」は
自分の今後にかかわる、一大事だと言える.

たとえば2、「糖尿病」の人にとって
「人工透析」というのは 自分の生死に関わる
ほどに欠かせない、「超!大事なこと」だろう

たとえば3、受験生にとっては
「いい教師や参考書」を選び、使うことは
とても重要なことかも知れない.

たとえば4、商売が上手く行ってない人は
本やセミナーなどで「いいノウハウ」を
仕込むことが、とても大事なことになってくる

状態と「大事なもの」


このように…概して
今の状況(健康状態、学力、儲けなど)が
「低い、悪い、芳しくない」人であればあるほど

その人にとって「欠かせない、大事なもの」は
数も多く、重要度も高く…なっていく
ものだ

自分の状態が深刻な人であればあるほど
「何か、たよるもの」を 必要とする…というわけ

「大事なもの」の中身


さらに言えば、
現状が深刻なほど「悪い」人であればあるほど

その人にとっての「大事なもの」の中身は

「応急処置的」「表面的」で
「救世主と言えるほど重大な存在」になってくる



たとえば、明日受験なのに
深刻なほどに学力が低い人にとっては
「これだけは覚えておけ!」的な
すごく表面的なテクニックに
たよらざるを得ない

たとえば、とても健康状態が悪くなった人は
もう「手術しか無い!」ところまで追い込まれ
それが無ければ、もう死んでしまう.

本当に大事?


しかし実は、それらは、
「本当に大事なモノ」では全然無い.

たとえば、今の私は
「人工透析」なんて、必要も関心も無い
「手術」や「厳しいダイエット」なども
全く不要である.

日々の生活を「ちゃんと」していたら
それら「応急処置的な、緊急策」などは
全く、必要では無いわけで

それらは 言ってみれば
「もう手遅れになった人には、重要」
というだけであって、
本質的に重要なわけでは、全然無いのだ

本当に大事


一方、本当に大事だと思うのは

当たり前のことだが
「日々、健全に、ちゃんとしていること」
だと言える.

適度に運動しバランスのとれた食事をしていたら
ダイエットや、深刻な病気とは
ほとんど無縁でいられるわけで

応急処置的な「大事なモノ」の
お世話になることも無いのだ

自分にとって大事なもの


自分にとって、
何か「絶対欠かせないほどに大事なものごと」
というのがあるのだったら

まずは
何故、自分は、そんな存在が
欠かせないような状態に なってしまったのか
と考えてみなければ
いけないかも知れない

本当に、健全でいる人にとって
「絶対に無ければいけない」ほどに
大事な存在なんて、そんなに無いはずなのだ



「これが無ければ!」
「この人がいなければ!」
…という存在が「ある」とか

何かに「たよりきってる」状態というのは
基本的には「不健全」なわけで

「大事」の本物度


今、深刻なほど不健全な状態にある人は

「本当に大事なこと」を、忘れていたり
怠っていたがために

「何かに たよらざるを得ない」ほどの
「崖っぷち」に立たされた
と考えるべきだ

そして、その人にとっての大事なモノは
「本当、本質的に大事な、基本的なモノゴト」
では無くて
「応急処置的、救世主みたい」な
表面的な策に、置き換わっていってしまう.

「大事」を、バカにしていると
「大事の『本物度』」が、低下していく
のだ



病気の例で言うならば…
本来ならば、そこそこ(適度に)健康に気遣った
生活をしていたら、よかったものが

それを無視していたがために、
「もう絶対に欠かせない『手術、薬』」に
たよりきる状態にまで 堕ちてしまった

その「大事」は、本物では無いが…
いったん、そこまで堕ちた生き方を
すぐに戻すのは難しい(ほどに)
なってしまったのだ
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2016年08月21日

分かったつもり

中途半端な理解


誰もが、ほとんどのモノゴトについて
「分かったつもり」でいるが

よく言われるように
「完全な理解」なんてのは
ほとんどありえない.

知ってることのの、ほとんどは
「思い込み」である

知ってる人


実際、どのような分野でも
その道に、最も詳しいはずの
「大学教授」「プロ、ベテラン」は、

その道の「研究者、探求者」である

つまり、知識も理解も豊富であるはずの人
のほうが、「分からないこと」に
とりつかれたかのように、悩み
探求の日々を送っている

プロやベテラン、研究者って、
「自分たちが、いかに『知らないか』」を
最も深く 知っている人のことだ

分かったつもり


逆に言えば、凡人というのは
何もかもが「分かったつもり」レベルな上に
自分たちが「分かったつもり」レベルで
あること自体に 無自覚である

つまり、何かが「分かったつもり」になったら
もうそれで、本当に「分かった」気分になれる

それが 凡人というのものなのだろう

興味関心があれば


もう少し具体的に説明してみると…
その対象に、興味関心が強くある人は

あることを「知る」ことで
「次の疑問」「さらなる原因」
「余計に知りたくなること」が出てきて

「謎、知りたいこと」は
減っていくどころか
むしろ「際限なく増えていく」流れとなる

だから、一番詳しいはずの研究者に限って
その分野に、多くの「探求の道」が見え、
知りたい要求は、永遠に満たされない.



一方、
その対象に、無関心な人は

あることを「表面的に知った」だけで
「何かが片付いた気」になり、
もう その世界との「縁を切れる」ことを
うれしく思える.

だって、いつまでも
「興味も無い、ワケも分からないモノ」と
つきあいを続けるのは 疲れるし.

だから「さらなる疑問」が出るほど
深く考えることもしない.

「理解」と「感心」の指標


以上をふまえると
次のようなことが言えると思う.

自分が、本当にそれを理解したかどうかは
「さらなる謎、知りたいこと」が
増えていくかどうか?で、判別できる.

自分が、本気で それに取り組みたいと
思っているかどうかも、
知れば知るほど「分からないこと」が
出てくるかどうか?で、判別できる

解決気分


…というか、興味自体が無く
それについての探求を「面倒」だと思う人は

「さらなる疑問」が出てくること自体を
歓迎しないだろうから、
表面的に 知ったつもりになり
何かが「片付いた気分」になれれば
本当に、それでOKであるはず.

簡単に言えば
「これ以上は、知りたくない」からこそ
「知った気」で、片付けようとする

つまり
「知ったつもりになる」のは
「知りたくも無い」気持のあらわれ
である

そして、どんなに真面目な人にだって
そのような「感心を持ちたくも無い分野」って
沢山あると思う.

あとがき


いわゆる「気づき」を与えてくれるような
本や、文章を読んでも

ただ「いいこと知った」と思うだけで
そこから、疑問や、新たな知識欲が沸かない人は
「知ったつもりになってるだけ」である

2016年08月20日

面白いテーマ

選べないテーマ


たとえば、
「文章を書き慣れたプロの書き手」は

どんなテーマで書くことになっても
一定以上の「面白さ」を持った文章を
書くことができると思う.

企画や演出のプロだって
上からの命令で「今度は、こんなのを作れ!」
などと、テーマが決められていたり
厳しい「制限、縛り」が課せられている
仕事をすることは、珍しく無いわけで

プロだからこそ
テーマは「選べない」ということも
普通に よくある

何でもOK


言ってみれば、プロというのは
自分が「作りたいもの」を作るのでは無くて

「作るべきモノ」が、何であろうが
そのテーマで、面白いモノを作るのが
仕事のようなものである

たとえ、自分が気乗りしないような
テーマであろうが、
それについて、取り組むことになれば
あれこれと調査や取材をして 構成を練って
なんとしても 一定以上の質は確保する(できる)
…というのが、プロであるわけで

テーマにたよらない


言い換えるならば、
プロというのは
「テーマにたよらずに、面白さを作れる人」

「面白さの本質を テーマに求めない人」
ということであるかも知れない

まぁ、これ↑は、ちょっと「言い過ぎ」で、
実際は、テーマの興味性も
中身の面白さと無関係では無く、
斬新で、目新しいテーマというのは
やはり 求められるものではある.

でも、姿勢としては
「テーマなんて何でもいい」と
思うくらいの気持ちで、モノを作る(作れる)のが
プロというものだろう

推したいテーマ


そして、今日 最も言いたいことでもあるのだが
プロというのは、
「何がテーマだろうが、面白くできる」
ほどの実力があるからこそ

自分が「推したいテーマ」があったら
それが何であれ、
コンテンツとして成功させることができる
ということ

簡単な言葉で言えば
ふと、自分が「これって面白そうだな」と
思ったら、
それを「面白い企画」に まとめ上げて
それを「面白いテーマ」に「してしまえる」
実力を持っているのが、プロだということ

ヒット作のテーマ


たとえば、ハリーポッターみたいな
「魔法の世界」をテーマとしたストーリーが
一時期、大ヒットしたことがあるけれど
考えてみれば「魔法の世界のお話」なんて
大昔から、いくらでもあったわけだ

実際に、世の中でヒットしている
数々の映画やマンガの「テーマ」なども
「テーマが斬新だったから」とか
「テーマの眼のつけどころが良かったから」
というよりは

単に「面白く作られているから」ヒットした
としか思えないことが、ほとんどである

それなのに、魔法のストーリーがヒットすれば
その面白さの要因は「魔法 というテーマ」に
あるかのように錯覚する人は多いから

「面白いテーマ」に こだわり
これに たよろうとする人が後を絶たない

失敗作


世に膨大にある「失敗作」のほうこそ

世で ヒットした「成功作」の
目立ったポイントや テーマの「マネ」や
「二番ぜんじ」的な作品であることが多い

たとえば
「宇宙での戦闘モノが流行っているようだから」
自分も、そういう風味のモノを作ってみて
失敗する…みたいに.



本当に「テーマなんて、何でもいい」のだ.
大事なのは「つくり」のほうで.

そして、テーマにふりまわされないからこそ
本当に、自分が面白いと思えた
「斬新なテーマ」を見つけることは出来て
それを 商業的にも成功させられるのだと思う

あとがき


「面白いテーマ、無いかなぁ?」などと
あちこちを 探しまわるヒマがあるならば

平凡なテーマでもいいから、作り始めて
それを 出来る限り 面白く見せるように
することに、パワーをかけてみたら
それが一番の修行になると思うし

そのようにして実力をつけていけば
ある日、ふと「作りたいテーマ」を
思いついた時に、それを
うんと面白いモノにまとめられるはずである

2016年08月19日

理解と受け入れ

「否定」の理由


人が、モノゴトや人を
「理解しかねる」と言ったら
ほとんどの場合、それは「否定」の意味である

まぁたしかに
「意味が分からないモノゴト」を
無条件で採用するなんて
普通は、出来ない気はするから

「理解できないこと」は
「否定する理由」になるのだろう

理屈抜きに面白い


でも…別な局面では
「理屈抜きに面白い!」などと言って

「意味は分からないけれど、大歓迎」な
姿勢を採ることもある

つまり、漠然と「イメージが良く」
好感が持てるのであれば

「理解できるかどうか」なんて
たいして問題では無くなる…と
いうことなのかも知れない.

理由になってない


つまり、結局のところ
「理解の度合」というのは
何の(拒否や歓迎の)理由にもならない.

何となく、嫌な雰囲気が漂っていたら
人は「意味不明」などと言って
それを嫌う理由が「意味」にあるように
言う一方、
意味やワケなんて分からなくても
好感が持てれば、人はそれを歓迎するわけで

分かるから、嫌える


…というか、普通に考えたら

対象(相手)の実態や意味を
しっかりと理解できた上でこそ
それを 嫌ったり、「拒否、否定」の姿勢を
理由つきで説明できるはずである



まぁ、実際は
「得体が知れないから 避けたい」
という気持は、理解されるものではあるが

理屈っぽく考えてみれば
嫌いな理由を、ちゃんと言えてこそ
納得のいく「拒否」ってできるわけで
「意味が分からないから嫌だ」というのは
実は 理屈が通っていない(笑)

理解は不可能


しかし…(さらに、理屈っぽく言うならば)

どんなモノゴトや人も
「完全に、何かもを理解しきる」ことは
しょせん、不可能ではある.

人の理解も「分かったつもり」がせいぜいで
本当のところは、本人にしか分からないか
本人にも自覚できていないことは多いわけで



そう考えると「理解できないこと」を
否定の理由にするのは、
ますます「損」なことな気がしてくる

否定の必要


それに、どんな対象であれ
「否定したら終わり」である.

そして、いかに相手が「理解不可能」だろうが
別に、否定する必要は無い

冒頭でも書いたとおり、そもそも
理解できないことを否定と結びつけるのだって
たいして根拠のあることでは無いのだし.
…というか、理解できないのだったら
否定する理由も無いはずで