2017年08月22日

本物至上主義

本物の良さ


「本物こそが最高だ!」とか
「やっぱり本物は、いいねぇ!」…などと
言う人がいる.

まぁ、普通に考えても
「ニセモノ」「作り物」「マネ」などの言葉は
どちらかと言えば、マイナスのイメージで、
「本物」という言葉には、良いイメージがある

ニセモノ


そして、「本物」には
かなりの良さがあったからこそ
それを見習った「ニセモノ、マネ、作り物」が
出た(作られた)…という流れがあるのだろうから

「本物」には、たしかに
世の中を動かすだけの 良いパワーがあった
ということは、認めざるをえない.

それに、どんな「マネ」にだって
「マネしきれない部分」はあるものなのだから
「本物にしか無い良さ」って、
確かにあるはずだし、

これ(本物ならではの良さ)を 高く評価する人が
大勢いても、全く不思議では無い

最高?


しかしながら
今日言いたいことは、むしろ逆で…
本物が「最高」だなんて
誰が 決めたのだろうか?
ということのほう.

…というか、本物至上主義って
人による 編集や加工や創作行為を
否定しているようにさえ、思えちゃうのだが.

平凡で退屈な「本物」


それに…我々の「現実、普段、日常」の
ほとんど全ては、言ってみれば「本物」であるが

そのほとんどは
特に面白くも無く、平凡なものばかりで
高い価値や面白さが認められるものでは無い

興味深さや面白さの価値を持つのは
そんな 自然や日常の中でも
滅多に無いような、奇跡的な一瞬だけ

我々は、そんな
「滅多に無い、珍しい一瞬」だけを
何かだと とりたてて思って
これを評価しているに過ぎない.

そう考えてみても
「本物だから良い」なんて理屈は
おかしいと思う

元祖


以上と似た話ではあるが…
「元祖」という単語にも
おなじようなことが言えると思う.

つまり…たとえば
「元祖!」ということを、宣伝文句にする店や
それを 良さだと思う 消費者って いるものだ

まぁもちろん、元祖には 元祖ならではの
思想の純粋さや、立派な理念があって
そこから来る良さというのもあるだろうから
「元祖」という言葉に
高い価値を期待する気持ちというのは理解できる



でも…それに触発された「後発」のほうが
元祖より劣るかどうかは、分からない.

…というか、後発だからこそ
元祖には欠けていたモノや、
それ以上の視点や工夫を盛り込んで
「上回る」ことだって、充分にありうる.

「後発なのに、より良くなってないほうこそ
おかしい!」という考え方だってできるわけで

2017年08月21日

何を学ぶべきか

純粋な取り組み


高度な数学や物理学、天文学などは
「何のためになるのか?」
…と思う人も、いるかも知れないけれど

それらは そもそも
「何か、実用的な目的のため」というよりは
「探究心を満たすため」に始まったと思う.

そして、無目的というところにこそ、
取り組みの 純粋さを感じる.



まぁもちろん、当初は
「何のため」でも無かったような
高度な理論や理屈が
後で、何かに応用できることが分かって
実用的に使われる…という流れは
多くあるとは思うし、

ある目的のためを狙って
編み出された理論というのもあるだろうが

どちらがより「あるべき」ということは
無いと思う

教育の役割


教育の目的の一つは

「それ(その分野)に取り組むことの
意義や面白さを理解してもらうこと」だと思う

つまり
「それが何のためにあるのか」みたいなこと

それさえ伝わったら…
その人は、細かい事象や理屈は
自発的に 調べて、マスターしていくはず.

分野の紹介


それと同時に…

「こんな (取り組むべき)分野があるよ!」
ということを、紹介や提案するのも
教育の役割かな、と思う

学校では、様々な科目が
時間割に組み込まれていて

モノによっては
「こんなの、何のためにあるの?」
と思うような 科目や分野だって
結構あるかと思うけれど…

それらが 何のためにあるのか?を
知るためにだって…
ある程度は、やってみないと分からないわけで

人によっては、色々やってみる中で
「自分が取り組むべきこと」を
見つけたり、そのヒントにするだろう

つまり
…そのため(各分野を、少しは知るため)に
それらの科目はあるのかも…くらいには思う

ノウハウ


一方、「具体的なノウハウの伝授」とか
「気づきを与えること」等は
さほど重要では無いと思う.

それらは
「教えられて知り、マスターすべきもの」
というよりは

各自が直面する問題に応じて
「自分で気づき、自分で編み出せる」
ということのほうが、重要なわけで

具体的なノウハウは
そのうち、自分で「そんなの」を
編み出せるようになるための
ヒント(実例)に過ぎない.

重要なのは「知識」では無くて
「観察力と思考力」…というわけ

観察力と思考力


…というか、いかに
様々な 高度なノウハウを持っていようが

観察力や思考力が乏しかったら

いくつか仕入れたノウハウの中の
「どれが一番いいか?」を
的確に見抜くこともできないだろうし、

状況に合わせて、それらの技をアレンジする
ような応用力だって発揮できない.



逆に、解決力や知識には欠けていても、
最低、観察力さえあれば

「現状の良し悪し、そのポイント」
の見極めは出来る…ということなのだから

その部分の実対処は、技術力や知識のある他人に
任せることだってできる.

道具


これは「ツール」を使う際にも言える.

たとえば、今時のパソコンで動く
製作ソフトや編集ソフトは

「大昔だったら、その道の達人しか
できなかったような高度なワザ」などが
メニューから選ぶだけで、自動でできちゃう!
…みたいな、機能が満載!だったりするけれど

それでも…
「どんなワザを、どこに使うべきか」を
判断するのは、使う人である.

どんな 凝った、難しいワザだろうが
「今、ココでは、それは 使わないほうがいい」
ことのほうが 多いわけで、

ワザ自体よりも「使い所の見極め」のほうが
難しかったりすることも、普通にあることなのだ

2017年08月20日

ゲーム音楽

まえがき


私は、ゲームソフトで流れる音楽や効果音作りを
仕事としているので、
たまには、ゲームの音楽作りついて 書いてみる.

BGMは部品


当然のことではあるが、ゲームソフトって
「ゲームで遊びたい人」が買うものだ.

まぁ、シリーズやソフトによっては
「音楽が聴きたくて買う」というユーザーも
いることはあるけれど、前提としては
ソフトは「遊ぶモノ」であって
音楽は、「要素の一つ」に過ぎない.

だから、音楽って
ユーザーのために作るというよりは
ソフト(コンテンツ)が目指す世界観を
作るためにあると考えるべきだろう

プレイの邪魔


たまに
「BGMは ゲームプレイの邪魔にならないように
配慮して作る(べきだ)」という意見を
聞くことって あるのだけれど…

個人的には、これについては全く考えない.

…というか、私自身は、何かゲームしていて
「この音楽、邪魔だなぁ〜」という感覚を
味わったことが一度も無く、
「どこまでやったら、邪魔になるんだろうか?」
程度にしか思わないし.

まぁ、「邪魔になるくらい、場違いな音楽」が
流れていたら…それは作者のセンスを疑うけれど
商品レベルで そんなモノは見たことが無い.

異質のモノ


それ以前に、
「音楽は、プレイを邪魔できるのだろうか?」
…と思う.

普通に考えて、
「似た要素同士」は互いを邪魔することがあるが
「異質な要素同士」は、さほど衝突しないものだ.

つまり、同じ「サウンドの要素」である
「効果音」だったら、
「音楽」の邪魔になる可能性はあると思うが
(逆に、効果音が音楽の邪魔になることも)

基本的に、音楽は「見た目」や「プレイ」の
邪魔にはならないはずだ

価値ある要素


それに…もし
「あまりにも興味深い、良い音楽」が
鳴ることで
おもわず、プレイの手が止まって
しばらく音楽に聞き惚れてしまう
…なんてことがあるとしたら

それはまぁ「プレイの邪魔になった」と
言えるかも知れないけれど…

それほどの音楽があったら
是非とも聴いてみたいものだと思うばかり.



…というか、遊びの邪魔になるくらいの
素晴らしい音楽が流れて…
「カネ返せ!」って、思う人が いるだろうか?
「そんな音楽、無いほうが良かった」だろうか?

その「邪魔」って、悪いことなの?

音楽だって、コンテンツの一部であり、
その要素が、メイン要素であるはずの
「遊び」よりも目立つことが
ちょっとくらいあっても 別に問題無く無い?

…というか、それくらい 様々な良さが無ければ
今時、見向きもされないのでは?

映画みたいな音楽


あと、自分なりに心がけているのは
「まるで映画みたいなソフト」を
目指してはいけない!
ということ.

まぁ、数十年も前の、低スペックな頃の
ゲームソフトだったら…
「映画みたいなグラフィック」とか
「映画みたいな音楽」…みたいなのは
それなりに魅力を感じさせる
コンセプトか宣伝文句だったと思うけれど

今や、そんなのは普通に作れてしまうからこそ
ゲームは、映画みたいに「なってはいけない」と
強く思う.

だって、映画みたいなので良かったら
映画(本物)を見たほうが、いいわけで…
でも、我々は、ゲームを作っているのだから

むしろ「映画音楽との違い」を
強く感じさせるモノを作ったっていいくらいだ

…まぁ、↑それさえ
「映画に ふりまわされてる」と思うけれど.

作品の各要素が目指すべきは
「その作品らしさ(を出来るだけ高める)」
というのが、まっとうな考え方なわけで.

2017年08月19日

貧しい考え方

貧乏な食生活


貧乏な人に限って、

栄養が良くないような スナック菓子とか
栄養が偏っていて添加物も多そうな
市販の弁当や即席麺、冷凍食品
ばかり 食べてる

…自炊したほうが安いのに
というようなことが言われる.

つまり、貧乏な人って
ちょっとばかり値段は高くついても
お手軽で、手間のかからないモノを
ただ、食べたい…と考えがち.

受け身な勉強


勉強のために、本を買って読んだり
いろいろ見て回るけれど

…たいした成果は出ていない、という人
って、いると思う

そうした人たちの多くは
勉強に関して「受身的」に過ぎるのだろう.

つまり…本当は
そういう「見るだけ、聴くだけ、読むだけ」な
勉強というのは、そんなに多くしなくても

自分で手などを動かして
「やってみる、作ってみる」ことで
得られるモノのほうが、
ずっと勉強になったりする

貧しい考え方


ここまでの例で、私は どちらも
「貧しい考え方」について言おうとしている.

つまり…

「貧しい考え方」をする人というのは
食に、「お金」をかけないのでは無くて
食に、「考えや、手間」を かけない.

お手軽に、受身的に、
ただ、買って食べられるモノを買う.



「貧しい考え方」をする人というのは

勉強にしても、
本や体験に「お金」は注ぎ込むけれど
「見るだけ、聴くだけ、受身的」で終わる

創造的な考え方


逆に…
「豊かな考え方(生き方)」とは
「創造的(クリエイティブ)な考え方」の
ことを言う

つまり、「食、食べること」ならば
基本的に、自分で作る(自炊).
自分で考えて、一工夫したり
料理の手順や方法を考えて
できるだけ いい結果を得ようとする.



勉強にしても…
自分で 手を動かして、考えて
工夫や試行錯誤の展開を持ちながら
様々なモノを身をもって会得していく

こういうのを「創造的」と言う.

そこにかけてるコストは少なくても
自分の持つ考えや能力をつぎ込んで
「豊かな結果」を得ようと姿勢が
「クリエイティブ」…ということだ.

豊かさ


言ってみれば
クリエイティブな人というのは

インプットに対するアウトプットが
「大きくなってる」人のことを言う.

ちょっとした材料から、豊かな結果.
ちょっとした情報からでも
意識や手間をかけながら、結構なモノを得る

…というか、創造的ってのは
文字通り
「価値を産み出す指向や姿勢」のことなのだから

それが直接、創作や料理といった
「仕事、職業」になることだって、あるはずで

つまり、豊かな考え方をする人は、
実際に、豊かな結果、たとえば直接的に
金銭を得る度合だって、高いはず.

貧乏人


逆に言えば
クリエイティブで無い人というのは
単なる消費者

食事も、勉強も、単なる「消費」で
その行為が 何を産み出すわけでも無いから

貧乏な考え方をする人は
実際にも(金銭的にも) 貧乏になりがち

だって、何か価値を産み出そうという
指向に乏しいわけで

あとがき


貧しさは、貧しい考え方から来ている.
金銭的にも、心の面でも.

2017年08月18日

矛盾からの発想

人と矛盾


私がよく言うことではあるが…
「人って、矛盾した存在」である.

たとえば、「こうなりたい」という目標意識や
「こうすべき」といった理念の言葉って
いかにも当人が、そうしたいと
心から強く信じているかのように見えるけれども
実は そうでは無いからこそ
いちいち言葉に出して言っている.

いけないこと


多くの人が 目くじらを立てて非難するような
「不謹慎な行為、ずるいこと、犯罪」なども

わざわざ 取り沙汰して言うのは
そこに「自分も したいと思ってる気持ち」が
ちょっとくらいは あるからだ.

…というか、それが法律的に犯罪であると
されたのは
「やってはいけないけど、したくなること」
だからなのでは?

たとえば「ずるいこと」なんてのは
あからさまに「本当は 自分もしたい」
という気持が隠れているように見えるし

人殺し


殺人なども…もちろん、してはならないことだと
誰もが分かってはいるはずだが

でも、誰だって
「あんな奴、死んだらいいのに…」みたいな
ことを冗談半分にでも思ったことはあるはず

それでも、誰もが
「そんな気持、持ったらいけない」などと
自分で否定したり隠しているからこそ

どこかで殺人があった際に、それが
過剰反応っぽい言動のような、別な形で
あらわれるのだと思う



…というか、人殺しみたいなモノって
それが 極度に「いけないこと」だからこそ
多くの人が、意外と、そこに興味を持つ.

殺人をテーマにした小説とか
ホラーなどのコンテンツは膨大にあって
結構、売れてもいるわけで.

偏った考え


偏った考えを 強く主張する人は
「反対派」の存在が 気になるものだが…
ここにも、一種の矛盾が隠れていると思う.

だって、もし その考えが
正しいに決まっているのだったら
「反対派の存在の可能性」すら疑わず
何に 警戒的になるはずも 無いからだ.

それを、気にしたり、
むきになって反論や論破しようと思うのは
つまりは 反対派の存在を認めていることの
証拠のようなものである

おそらく、極度に偏った考えや意見ほど
「逆のほう」にも 目を向けることで
結構なモノを得るかと思う

一貫性


人は そもそもが「矛盾した存在」だからこそ
「一貫性」のほうこそが、矛盾のようにも見える

つまり、信念を貫いていること自体が
何か「ムリをしている」ようにも思えてしまう
(実際、そうなのだと 私は 思うけれども)

…だから、自分は「こう」だという
強い思い込みが自分の中にあると思ったら
その「対極的な考え、矛盾したもの」の側に
意識を向けてみるだけでも、
結構な発見があるかも知れない

意外性と矛盾


多くの人は、自分の中に矛盾があることを
あまり 認めたがらず、目を背けているからこそ
これが、創作のテーマになったりもする.

人の「意外な側面」を感じさせたり
「意外なことを言う」「意外な展開」
…などの意外性だって

「矛盾」ということに 意識を向けてみたら
結構、ネタ出しはできるものである

だって「普通は、そうで無いもの」が
ネタ(発想すべき対象)…ということだから
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 発想法