2018年02月18日

展開と変化

ダビンチ


天才として有名な
「レオナルド・ダ・ビンチ」という偉人の、
これまた有名な話だとは思うけれど

彼は、画家で、彫刻家で、建築家で
解剖学などにも詳しい科学者でもある.

…それは いかにも
「いろいろやってる人」に見えるけれど

当人としては、まずは「いい絵を描くため」に
3次元の風景を平面に投影する技法に凝ったり、
立体物の構造や、人体の中身に興味を持って
それらを突き詰めていった結果
「いろいろした」ことになったに過ぎない.

要するに、当人は
「自分の興味を突き詰めているだけ」で
自然と、あれこれやったことになったというだけ

「いろいろやった」のは、結果であって
「いろいろやってやろう」と思って
したわけでは全然無い.

変わろう!とする人


これと比べると
「変わらなきゃ!」みたいなことを言う人の
考え方が、いかに愚かなのかが分かるはず

だって、今までしてきたこととは関係なく
「何か、新しいこと」を 自分に追加することで
わざわざ 変わろうとしているから.

それは「追求」でも何でも無く

ただ、今までの自分に「飽きた」から

あるいは、どこかからの情報に揺らされて
漠然と「こっちに行ってみるか」…みたいな感じ

…そのような人が何度、
「新しいこと」に 乗り換えようが
何が極まるわけでも無い.

「替えてる」人


…というか「変わらなきゃ!と思うから
今までと違うモノに手を出してみる」人
を見るたびに

「今までの自分」は?…って思ってしまう.

人が「変わる」ために
「今までの自分なんて捨てて
全く新しい人間になろうとする」のって
手段として、最も効率が悪いものだと私は思うが

…というか、それって
「変えてる」のではなくて「替えてる」のでは?
とも思えるし

既に、そこに詳しい人が沢山いるような
新しい分野に今更その人が行く意味も分からない

「変わる」手段


つまり、自分の入れ替え、別人になること」は
「変わる」とはいい難い.

人が ある展開を経て、成長や変化する…とは

今までの自分が築いてきた特徴や得意分野を
「捨てて、違える、替える」のでは無くて

「広げる」とか「追加する」とか
「改善、改良、レベルアップ」などを
していくことを言うと思う.

そうしていくうちに…
「捨てる」とか「違える」なんてことを
わざわざ考えなくたって、人のある部分は
自然と「変質、進化」していくはず

追求だけでOK


要するに…人って
別に「変わろう!」などと思う必要は無くて

単に、自分の道だと思えるような
「追求」を、真剣にやっていくだけで

そこに必要な 意識の「拡張や追加、変革」が
自然に起きる展開となる.



そのような 追求のネタも持たずに
ヒマな意識でいる人が

「今度は、何を やろうかな?」などと
くだらないことを考えて
「何か新しいこと」自体に価値を見出すのだろう
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心の持ち方

2018年02月17日

安定的な心

断捨離


「断捨離」みたいな、極端なことを
考えちゃう(やっちゃう)人って

心がシンプルじゃないから…だ

あまりにも「やり過ぎ!」と思えるような
最終兵器みたいな トレーニングやノウハウって
あるけれど…

そういうモノに手を出すような人というのは
要するに
「そういうモノに手を出しちゃうほどの
状態に、なってしまった、手遅れな人」
だということ.

常軌を逸した


もし、何かの「解決策」として

「超能力」とか「霊、神、宗教」のような
常軌を逸したような策を、真剣に
検討している人がいるとしたら…

それらは、間違いなく
「解決策では無い」と言えるだろうし

それらの人が抱えている問題の原因は
「その人の 生き方や考え方そのもの」に
あるだろう.

つまり、その人の考え方がおかしいから
その人は 問題を抱えることになっただろうし
そして、間違った解決策に目が向くことにも
なったのだということ.

「普通」でOK


こうした人たちって
これまで「おかしい」生き方をしてきたから
今、困っていて、
一発逆転、救世主みたいなノウハウに
意識が向き、
あやしい教材などに大金を注ぎ込むことになる

それって言ってみれば「手遅れ」だということ

そのような状態を治すためには
「スゴいノウハウ」に たよるのでは無くて

まずは「普通に、真面目にやっていく」
ことの大切さを悟ることが、重要だと思う.



だって実際…ほとんど誰でも
普通に 学校で教わった勉強を
普通程度に取り組んで、
日々、適度に 真面目にやっていれば…
普通に 生きていける能力程度は身につくはず.

…というか
「普通のことを、ちゃんとやるだけ」
でも、人は、かなりのモノになれるはず.

その「ちゃんと」を、しっかり出来る人も
まぁ、なかなかいないものではあるが.

スゴさに惹かれる


まぁこれも程度問題ではある.

たいていの人は
そんなに「模範的」と言うほど
ちゃんとしているわけでも無いから

「極端なモノ、スゴそうなモノ」に
ある程度 惹かれる…ということは当然ある.

だからこそ、各種のコンテンツでも
「奇異なテーマ」に人の興味が向いて
面白がられるわけで

それでも、健全な心を持った人は
自分を見失うほどにはならない.

心の安定性


以上のような観点で
「自分は、どうだろうか、どの程度だろうか?」
と考えてみるのも、たまにはいいと思う.

健全で安定的な心を持った人は
周囲の雑音に、揺らされ過ぎない.

スゴそうなノウハウや人物を
誇大広告の文句みたいに
過度に 神格化したりは しないし

ある「秘密テクニック」みたいなモノを
救世主のように思いこんで
大金を注ぎ込んだりもしない.



モノを学ぶにしても、
まともなセンスを持って伸ばすにしても
普通に生きていくことを考えても

そうした「健全で安定した心」こそ
まずは持つべきであると私は思う.
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみよう

2018年02月16日

自分は特別

自分の特別感


世界において、そして自分的には
「自分」って、特別な存在である.

…そんなの当たり前だろう.

誰だって「自分」というのは特別扱い

…というか、自分のことを
本当の意味で考えてあげられるのは
自分くらいである

特別扱いされたい


世間や、組織から「特別扱いされたい!」
…という 願望も
多くの人が持っていると思う.

まぁ、でも、ほとんどの人は
「普通の人」ではあるから
現実は、そうは ならないことがほとんどだし

ほとんどの人は「現実」も分かってはいるから
特別扱いされなくても「そりゃそうだ」
くらいにしか思っていないだろう.

個性


まぁ「特別扱い」とまでは いかなくても

多くの人は
「自分は、他人とは違う 面白いところがある」
…程度のことは、思っているはず.

たとえば、特殊な趣味や、その入れ込みよう、
自分だけの発見や 気づきを、ネットに投稿して
「そんな自分の、スゴさ」や
「自分の、どこか、ヘンなとこ」
「こういうセンスって、俺だけ?」
…みたいな自慢をしたくなる気持ちって
多少なら、誰でも持っているはず.

だって、自分の「存在感」って
そうした「自分ならではの…個性らしきもの」
が認められていることによって、
実感できるものだから

でも特別


そして実際に、誰だって
どこか「特別なポイント」は持っている.

まぁ程度は、さほどで無いにしても
独自の特徴や特技、嗜好や感性に
「見るべきところ、尖ったモノ」の
いくつかくらいは、あって当然.

…というか、「全てが平凡」な人なんていたら
その「超!没個性的なところ」こそが
個性になると思えるくらい(笑…に
そんな人なんて いない)

「特別」でも無い?


まぁ、それでも
「自分は 特別な存在なのだ!」という感覚の
多くは、誇大であり、勘違いであることも多い

そうした「たいしてスゴくも無いのに
悦に入ってるような人」は、
結構「悪い意味で目立つ」ことも多いだろう

そして…そうしたケースは結構あるからこそ

「自分が特別だ」なんてことは
思っていても、わざわざ言ったりは
しない人も多いだろうし

自分が特別という感覚自体を
「良くない思想だ」とイメージして
封印してしまう人というのも多いかも知れない

自分の特別性


それでも…私としては

「自分は 特別な人間なんだ!」とか
「自分が 特別扱いされたい!」という気持ちは
基本的には、悪いモノでは無いと思う.

まぁ、それが、ある種の宗教みたいに
ヘンな方向に行ってしまったら、
それは危険だとは思うけれど



だって…先にも述べた通り
人って、誰だって、どこかしら「特別」な
部分を、多少は持っているわけで

誰だって「特別な人間」だということ自体は
別に、間違いや勘違いでは無い
「当然のこと」である

本物の特別へ


そして、自分の、そうした
「特別な、見るべき部分」に意識を向けて

これを、世間的にも価値だとみなされる
くらいに「育てる、磨く、伸ばす」のが
自分の使命感にもつながっていって

その達成によって、その人は
世間からも、多くの人に「特別な存在」
として 認められるようにまで
なれるかも知れない.

誰もが それを目指せるはずだし
目指すべきである…とも思う.

逆に「自分なんて、平凡な奴に過ぎない」
という「おとなしい感覚」が強かったら
…なかなか 何処かに行く気にも
なれないのでは?
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心の持ち方

2018年02月15日

思考の精度

発音


日本人は「LとRの発音の区別」が苦手だ
と よく言われる

それは何故か?と言えば
我々が普段使っている日本語の中には
それらに相当する(っぽい)音としては
「ら、り、る、れ、ろ」しか無く、
そして、多くの人は
外国語の発音を聴いても
頭の中では カタカナの読みのような
「日本語」を意識するから.

…つまり、発音を表現や記憶するための
手段自体が、「日本語、カタカナ」といった
「LとRを区別できない精度の道具」
を使っているからだ

道具の精度


言い換えるならば…
使おうとしている
「思考の道具、手段、概念」の精度が、

要求される水準よりも「低い、荒い」と
充分な処理は出来ない
ということ.

実際、英語の発音の上手い人の多くは
頭の中で音を「カタカナ化」しておらず
直接「英語の音として」扱っていると思う

つまり、英語の発音をちゃんと学びたかったら
それを扱う(区別したり、覚えたりする際の)
道具となる「音のイメージ」を
まずは 頭の中に 持っておく必要があると言える

頭の良さ


ついでに言えば…「LとRの区別」って

一流大学に合格しているような
「勉強してる人、頭のいい人」の中にも
苦手な人は、大勢いる.

実際、高学歴な人の中にだって
英語をしゃべらせたら「カタカナっぽく」
発音する人は多くいるし
勉強家な人は、LとRの区別が 出来なくても
テストに出そうな発音は、勉強や記憶によって
正答を言えるように訓練しているわけで



逆に…アメリカなどの英語圏に行けば
幼児だって、LとRの区別はできているわけで

つまり 英語の発音の識別というのは
「勉強や、頭の良さ」などは全く関係が無くて
単に その人の「使ってる道具の精度」に
よっていると言える.

精度の高い道具


このことは、もちろん発音以外の場面でも
広く通用することだと思う.

人が、何かを見たり聴いたりした際に
その中の「微妙な違い」を区別できるかどうか?
…というのは

その人が前提的に持っている
「見聞きする際に使う 概念やイメージ一式」の
精度の細かさが、かなり効いていると思える.

語彙


もちろんこれは「見聞き」のような
「受け取る」ほうだけじゃなくて
「表現する、作る」際にも効いてくる.

たとえば…文章の読み書きといった分野だったら
それは
「語彙の多さ」などが重要かも知れない.



ありがちな例としては
何か、美味しいモノを食べた際に
「おいしい!」としか言えない人の
語彙の乏しさ…などが非難されることがあるが

実際、人を動かすような言葉を紡ぎ出せる人って
同じイメージ(情景、感想)を描写するにしても
様々な 言葉を選択肢に持っていて
それらを的確に使い分けることができるからこそ
「高く評価される表現」が出来るのだろう

いつも同じ…


そして「精度が低い」というのは
単純に「ネタが少ない」ということでもある.

細かい「区別、使い分け」が無いので
似たような状況では、
いつも 同じ表現しか出てこないからこそ

その人の表現物は 飽きられるのもはやく、
つまらなくなりがちである.

それは、作る能力、思考力ということよりも
単純に「手持ちのセンスの精度が低い」から
だと思えることも多い.

2018年02月14日

信念の管理

信念よりも…


たまに、「信念」を持つこと(突き通すこと)が
良いことであるかのように言われることがあるが

これって
「自信の無さ」から来るものなのかも.

だって「自分」よりも
「信念」のほうを信じるというのだから

信念の管理者


まぁ、「こうあるべきだ」という
方針程度のモノならば 私だって
いくつも持っているが

それらは「信念」と言えるほど
強く信じて従っているわけでも無い.



…というか、どのような信念であろうが
それを 採用しようと決めたのは 自分であり

ある日、考えが変わったら
その信念を 捨てたり、内容を改変するのも
自由であるはず.

つまり
「信念」って、人を操るようなモノでは無くて

人が、「信念」に値する考え方を
考案したり、採択したり、捨てたり…と
管理する側であるはず

何よりも、信念って
自分がより良く生きるためにあるわけで
これを 活かそうと思うならば
信念が「盲目的に従うだけのもの」で
あっては、ならないと言えるだろう

信念では無い


私は、自分の「あるべき考え方」を
このブログに 書いているけれど…

それは別に、これを読んだ人たちに
「こうしたほうが、いいですよ!」と
オススメしているというわけでは無くて

単に、自分が良いと思えた考え方を
文章の形で「説明してみる」試みに過ぎない

…というか、基本的に ここの文章って
「信念」どころか「ほとんど思いつき」で
書いていることもあるので
後日、考えが変わることだってよくある

ただし、それらを読むことで
読み手各自が 何かを考えたり 気がつく
「きっかけ」くらいにはなるかも…とは思うが

他人を正す?


ましてや、「他人を正そう」だなんて
思ってもいない.

だって、自分の考えでさえ
正しいかどうかなんて分からないし.

大勢の人から見て間違いと思えるような
考え方だって
実際に、採用しつづけていたら
当人的に、思わぬメリットがあるかも知れない.

何事も「やってみなきゃ分からない」わけで

そして、誰だって
一回の人生で 採用できる考え方は
多くても 数種類程度であり、
「自分のほうが 正しいかどうか」を
本当に分かることなど、全くありえないと言える

そんなで、よく「他人を正そう!」などと
思える人がいるものだと、思ってしまう.

自分も、他人も


要するに…
自分が正しいと信じているモノも
他人が正しいと信じているモノも
…どちらが正しいとも言えないし
優劣を比較するわけにもいかない.

自分は、自分の考えを 一応信じているが

でも、他人の(自分とは違う)考えが
それよりも、優れているか、劣っているかは
分からないものなのだ

信じるに値するモノ


このようであるから…
世の中には「信じるに値する考え方」って

自分がとりあえず採用しているモノ以外にも
数え切れないくらいに沢山ある

ただし、一人の人間は一度に一つの考え方しか
採用できない
…これは仕方ない.



でも…このことが理解できていたら

他人の考え方を 無闇に否定したりせず
自分と全く異なる考えで動く人にも
敬意を持てるはず.

だって、信じるに値する考え方は
自分が採用しているモノの他にも
沢山あると分かっているから.

信念の乗り換え


…というか、自分の 信念も
「絶対では無い」と思えているからこそ

「もっといい考え方があるはずだ」と思って
信念を捨てたり、改変したり、乗り換えたりして
人は、自分の考え方自体を
レベルアップしていける.

そう考えてみても…
「信念に操られている人」は損である.

人が、信念のほうを管理しなければならない.

自分を信じることで.

あとがき


「自分を信じる」(自信のある状態)って、

「自分は絶対に正しい」と思うために
根拠を集めることによって…では無くて

「全てが正しいことなんて、ありえない」という
のが当然だと悟ることで、まずは持てると思う
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心の持ち方