2016年10月04日

気が利く

気が利く人


「気が利く人」というのは、
皆から ありがたがられる
ある意味「価値が高い人」のことを言うと思うが

今日、考えてみたいことは
この「気が利く」ということについて.

たとえば、
「気が利く」というのは、
どのような価値のことを言うのだろうか?

あるいは、どう 頑張れば、
「気が利くようなこと」が出来たり
「気が利く人になれる」のだろうか?

(…というのが 今日のテーマ)

「量」じゃない


人が「高い価値のサービスをしよう」と思ったら

まず考えられるのは
「量や程度を増やす」ことかも知れない.

たとえば、単純に 売り物の量を増やしたり
沢山 遊べる、沢山 見れる
沢山働いてあげる…というような、価値の上げ方

こういうのは、やろうと思えば
誰だって出来ることだ.

でもこれは、もちろん
「気が利く」という価値の上げ方とは全然違う

気が利く人というのは
別に、人の何倍も働く…というのとは
違うわけで.

「珍しさ」でも無い


あるいは
「他の人が しないような独自性の高い、
あるいは 物珍しい価値の提供」みたいな

珍しさによる差別化
サービスの価値を上げるような
戦略というのもあるけれど
これも「気が利く」というのとは違う.

気が利く人は
別に、物珍しい、珍妙なことを
しているわけでは無い.

「応え」でも無い


あるいは
「相手が望むことを、何でもしてあげる」
というのとも違う.

…というか、気が利く人というのは
「当人も 気がついていない望み」を
見つけ出して、

当人が それを望むよりも前に
かなえて見せることができるからこそ
ある種の「感動」がうまれたりもするわけで

「望まれて」からでは、遅いのだ

「気が利く」能力


以上のように考えてみると…

「気が利く」というのは
単に「頑張る、無理する、努力する」
ということで、出来ることでは無くて

それは クリエイティブな「能力」
であると分かるはず.



つまり、「気を利かせる」とは、
相手自身が気がついてもいない
「不満」や「要望」に
相手よりも早く 気がついて
これを解消してみせる
…という「ワザ」のことを言うと思う

観察力


それに必要なのは、
努力や 頑張り、無理…では無くて
ある種の「観察力、洞察力、センス」である

ネタは、あちこちを見たら
見つかるのでは無くて

相手や、周囲をとりまく環境や事情を
「よく観察すること」で、見つかったりする

そして、見つかったら
それに 応えてあげるだけで

別に、コストやパワーをかけて
過剰にサービスしたり 安売りしたり、
物珍しさや派手さで目立たなくても
そして、
(何か)世界一のワザなんて全然無くても、
感動的なほどの価値を与えることができるのだ

ニッチ


このことは、
いわゆる「ニッチ」という言葉と似ている.

つまり、たまに「ニッチな市場を狙う」みたいな
商売の話題って、あるけれど

これも別に
他者よりも 何倍も頑張ったり
超高品質を提供したり…というのとは違って

単に「まだ誰も気がついて無いことに応える」
ということなわけで.

その「他人がしてないこと」は
別に「物珍しい」という方向性では無くて

その「需要」は、以前から日常の中にあったが
「見過ごされてた、見逃されていた」こと
に過ぎず、
これに 気がつくのが、価値であったということ

創作における「気の利かせよう」


もちろん、このことは「創作」にも言える.

創作でも、すごく頑張って分量や質を高めたり
あるいは、物珍さや派手さで価値を出すことは
普通に 行われてはいるが

そうした価値の出し方、上げ方では無くて

「皆が普段見過ごしている、軽視している何か」
に、いちはやく気がついて

「こういう面白さもあるのでは?」と
提唱するような品にこそ
クリエイティブな価値って、あるかと思う

2016年10月03日

受け入れられる姿勢

正論での炎上


ネット上で、たまに
「正しいこと」を言ってはいるのに
言い方が 汚かったり、高飛車なために
周囲からの反発を食らいまくっているような
展開を見ることがある.

まぁ、どんな論も完璧では無いから
どんな「正論」にも、ツッコミどころは
あるわけで、
些細な箇所が、厳しく言われるわけだ

最悪の対処


…で、このような時に
場の流れを無視して
「自分の論が いかに正しいか!」を
ただ、ひたすらにアピールしたり、

不当な攻撃や勘違いな攻撃に対して
これまた攻撃的な「論破」で お返しする
…というような対処は、最悪である.

そのような「論の攻防」によって
正しい論を言う側が勝利して、
皆が納得する形で めでたく場が
収まる…みたいな展開は
私は 見たことが無い.

敵を作るな


このような「正論で炎上を起こす上に
正論を言い張り、引き下がらない人」の
何が悪いのか?と言えば

それは明らかに「態度が悪い」ということになる

いかに正しいことだろうが
人々の反発心を煽るような言い方をしたら
それが正しいと分かっていても
素直に認めたり受け入れにくい姿勢となり
つまらないとこを攻撃してくる「敵」が出来て
面倒な展開になる.



自分の論を 他人に認めて欲しいのならば
「受け入れやすい形」で 発すればいいものを

正論の言い手の多くは、これを
「偉そう、高飛車な態度、諭すように」
言うから、いい展開にならない.

敵が出来る表現


クリエイターの意識として、このことを考えると
こういう人って、何故、
『わざわざ敵を作るような言い方』をするのか?
と思わずにはいられない.

だって、折角、世の中を良くするかも知れない
正しい考えがあるというのに、
これを人々に「痛い形」「受け入れがたい形」で
わざわざ言うのか

本当に理解に苦しむ.

普通に、丁寧に言えばいいのに.

正しさなんて


多分、そうした人が勘違いしていると思うことは
人が、他人(の言うこと)に
好感を持ち、受け入れる気分になるかどうかは

言う内容が「正しいかどうか」では無くて

単に「言い方一つ」である

いかに間違いだらけの、頓珍漢なことを言おうが
そこに 敵意や攻撃心が感じられず、
フレンドリーな口調だったら、
ほとんどの人は、好感を持って その言葉を
適当に聞き流してくれるものだろうし

逆に、いかに正しいことでも
バカにするように言われたら
反発心や敵視の気持ちがうまれて
その場は殺伐とし、
つまらないところがいちいち攻撃されるような
面倒な展開が発生しやすくなる.

逆に 言い方一つで、
悪人だった人も自分からすすんで
過ちを認めたくなる…なんてこともあるわけで

人が、相手の話を
「受け入れる気分になるかどうか」と
「内容の正しさ」というのは
意外なほど、関係無いことだったりする

創作


このことは創作においても重要である

「表現、みせること」が目的である芸術は勿論
論文や、報告書でさえ

「人が受け入れやすい表現で発する」心がけに
欠けていたら、
いかに いい内容、正しい内容があったとしても

つまらない「敵、敵視、反発心」によって
その評価が下がったり、
面倒な展開になるものだからだ



まぁ「注目させるためのワザ」として
炎上商法のように挑発的な言動を行う
…という高度な手段も、あるとは思うが
これも それなりの意識、覚悟や
察するセンス、話術などが高いレベルにないと
上手くいくことは無いだろう

リーダー


組織のリーダーなども
「受け入れられるイメージ」で無ければ
誰もついてはこない.

いかに「正しく、優れている」からといって
メンバーを バカにしたり、下に見たりして
「敵」に まわしてしまうような人には
面倒なことが多々起きて、
効率的に動けないわけで.

そして、「敵」を作ってから、
正しいことを言っても、もう遅い.

あとがき


いかに「敵なんていたって平気」だろうが
作る必要も無い敵を増やすような人は
そのうち、面倒な展開に巻き込まれる
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心の持ち方

2016年10月02日

色々な風景


たとえば「世界の様々な風景を見せる」ような
映像作品を作る…という時、

適当に「色々な風景」を見繕って、たとえば
「南極」→「砂漠」→「砂浜」→「大都会」
のように映像が切り替わるモノを作ったとしたら

これを見た人は
まぁ「色々な風景を見た」感じにはなり、
これを「つまらなくは無く」見れるだろうが

色々なモノが 順番や意味の脈絡も希薄なまま
次々と出ているだけでは、「見応え」も薄く
次の日には、見たことすら忘れていそうだ.



それはまるで、我々が ヒマになった時に

ネット上のページを「あれこれと」見て回って
「色々見た感じ」は 得られるけれども
後で、その時に 何を見たのかは
半分以上は覚えていないのと同じイメージである

ペンギン


でも、同じ「風景が次々と変化する映像」でも

主人公として、どの風景にも
「ペンギン」がいたら、どうだろうか.

「南極にペンギンがいる風景」
「砂漠にペンギンがいる風景」
「砂浜にペンギンがいる風景」
「大都会にペンギンがいる風景」は

冒頭の映像集よりは、
それぞれ、見ていて面白いモノになるだろうし

場所によって「うれしそう」だったり
「過酷」なイメージがあれば
受け手が心を揺らし、強烈な印象を
残すことにもつながる.



このように「主人公を立てる」ことで
「主人公=ペンギン」も「風景」のほうも
どちらも 楽しみの対象になるので

これだけで 映像の
「見応え、興味深さ、面白味」そして
「心に残る度合い、評価」は
随分とアップするわけで.

違う要素、同じ要素


モノを構成する際の大原則に
「色々と違うモノ」の中に
「いつも 同じ要素」があると

それぞれの「違い」も
いつもある同じ要素の存在感も

どちらも より一層、印象的に残るモノになる
というのがある

つまり、色々な要素が「バラバラに」
並べてあるよりも
「あるテーマや、主人公の元に」
変わっていくほうが、
見る人は、退屈も無く、より興味深く
意味のあるモノを見ている気分で
それを見ていられる.

「色々変わっていく要素」のほうも、
そして「いつもある要素」のほうも
どちらの存在意義、存在感もアップするので

(意外だと思う人もいるかも知れないけれど)
ある「主となるもの、テーマ」のもとに
「まとまり」が「ある」ほうが「無い」よりも
ずっと「色々ある感じ」になり、
しかも 残るモノにしやすい

曲の構成


音楽を作る際も、こういうことは大事である

つまり、作曲において「構成」を考える時は

曲が退屈なモノにならないように、と
「各部分」のイメージは、違えるものだが

でも、その中にも
「全体を通して 変わらない要素」や
「一貫したテーマ」を持たせることで
曲は バラバラでは無く、まとまりを持ち、
しかも「心を揺らす、面白い曲」になる



たとえば、同じフレーズを
違うイメージの背景(リズムやコードの感じ)
に置くことで、
「対比」的なものが感じられて
曲の「進行感」や「展開していってる感じ」
を楽しむことができる

大胆な変化


そして、「どちらにも同じ要素がある」からこそ
大胆に違えることも、安心して出来るので
「ダイナミックな展開」にするのも容易となる



実は、「違う場面に、同じモノを入れる」
という発想が無い人は、
かえって「大胆なほど違うモノを並べる」のに
躊躇してしまって
「少しずつ、意味の分かる変化」にしか
モノを並べることができなかったりする.

だって、全く違ったら、それこそ
展開も何も無く、作品は「破綻」してしまう
気がするからだ

…というか、それ以前に
「脈絡が無い」以上、見る人は 何を見たのかも
イメージしにくいわけだが

「軸」が無いと


まぁ、何事においても、
「軸」や「主(メインとなるもの)」が
感じられないモノは、存在感がイマイチである

たとえば、
「いろいろな能力が高い」ような人も
いろいろとやるからこそ、
実は イメージを残しにくい…なんてことはある

いろいろと体験したり本を読んでも、
そこにテーマを持っていなかったら
残るのは「いろいろやった」ということだけで
中身は、意外と残らないものだ

2016年10月01日

無意識の関連付け

コンビニ


たとえば、「コンビニに行きたい」と思った時
私の頭の中で 真っ先に「コンビニ」として
意識にのぼるのは
「セブンイレブンとローソン」の二択しかない.

他にも、いくつかあるのは知ってはいても
まずは、そこに行くことが検討される.

うどん


我が家では
「うどんを食べに行く」と言ったら
それは、いつも うどんを食べに行っている
「とある店」に行くことを意味する.

他にも、うどんが食べられる店は
沢山あるはずだけれども
我が家では、最初っから
その店に行くイメージしか無い

「うどんを食べに行く」と言われたら
無条件で その店に行くこと意外は
想像すらされず、
同等の店との比較や検討も全く行われない



道を行く時に 見かけるたびに
「この店、一度は入ってみたいなぁ」と
思う店が いくつかあるのだが

でも、うどんを食べたいと思う時に
そこが思い浮かぶことが無く、
結局 今だに 一度も行ったことが無い
…というような店も 私には数多くある

テレビ


「ヒマになれば スマホを見る」とか
「ヒマになれば テレビをつける」
…というように、

人が、ちょっとヒマになった時の行動は
たいていの場合
「最初から、決まっている」ことが多い.

だって、ちょっとヒマができるごとに
「さて、何をしようかな」などと
考えていたら、
何をするか決めるだけで時間を使ってしまう.

だからたいていの人が
「ちょっとしたヒマにすること」って
せいぜい数種類の選択肢しか無い

選ばれる品


創作や商売をする上でも
このことは 非常に重要である.

つまり、
自分の提供するモノやサービスが
必要となった時

人々の頭の中に、自分(の品やブランド、店)が
「関連付けられているかどうか」
「無条件に思い出されるかどうか」
「真っ先に思い出される選択肢に入っているか」

いかに丁寧で高品質な結果が出せようが
みるからに良さそうに見えようが、

人々が欲しくなった時に
無条件で&真っ先に思い出される選択肢に
入っていなかったら、
その店が 勝てることは まず無い.

関連付け


たいていの人は
行きたい店を決めるにあたって
関係しそうな店を 漏れ無く洗い出して
真面目に比較検討するわけでは無いから

特に商売においては
「人々の頭に 関連付けられているかどうか」
は重要であるはず.

CMや広告なども、一種の洗脳のように
様々な場所や機会で 大衆の目に触れて
「無意識にすりこむこと」を目指して
行われている面は 結構あるだろう.

でも、こんなことに
大衆(→自分も含む)の行動が
支配されていると思うと
これは結構、おそろしいことかも知れない

2016年09月30日

面白さに対するセンス

面白そう


パーティや宴会のような場で、
派手な格好、おかしな格好をした人がいると
「何だか面白そうな感じ」がして
場が盛り上がりそうな気がする

でも、いかに面白そうな格好はしていても
特に面白い発言も リアクションも無く
「ただ立ってるだけ」だったら
場は すぐに冷めてしまう

そうした人は
イメージとして「面白そう」でも
全然面白くは無い.

面白そうなだけ


お笑い芸人がテレビで出るような
「ふざけた着ぐるみ」などを着た人が
ステージに出たら

出た直後だけは、それなりにウケるだろうが
その後の展開が 面白くなるかどうは
「その人の実力次第」である.

格好だけが面白そうでも 格好だけだったら
そんなのは かえってしらけてしまう

逆に、見掛けなんて普通でも
企画力やトークが上手い人は
その場を 本当に面白くしてくれる

面白さと面白そう


以前にも書いたことがあるが
「面白そう」と「面白い」は
全く別物な概念なので、混同してはいけない

外見やイメージ的には
全く「面白そう」では無いような
真剣なお話や、悲惨な悲しいストーリーだって
面白いモノは面白いし、

いかにも面白い感じがする
ふざけた外見や、派手派手な演出があっても
つまらないものは、つまらない.

面白さの勘違い


様々な「イベント」や
「品やコンテンツ、企画作り」などでも

「お祭りっぽい演出」「派手さ」や
「型破りな発想」「楽し気なデザイン」
などがあっても、

「展開や構成」が下手だったら
それは 外見だけで終わる.

どちらが先か


本質的なことを言うならば…
本当に面白いモノには
「本当の面白さ」が含まれているからこそ

自然と「面白そうなイメージ」が ついてくる

外見だけを「面白そうなイメージ」にしても
モノは面白くなるとは限らないが

中身の面白さを突き詰めていけば
外見のイメージも きっと面白そうになる
…ということは わりと言える

切り分け


まぁ、「外見イメージ」も
「中身の面白さ」も
どちらも、言葉で言い表しにくい、
説明しにくい性質のモノではあるから

これを、キッチリと切り分けて
別なモノとして考えるのが
難しい…という人もいるのかも知れないが

でも、ここを混同するほど鈍いセンスでは
本当の面白さを突き詰めていく…なんてのは
到底できないと私は思う