ゲームが好きな人
現在は,店に行けば,実に多くの
ゲームソフトが売られているし
多くの作者やメーカーが,今も
新作を,続々と作り出している.
ゲームについての 雑誌や 二次的な創作物や
ファンのコミュニティ的なネット上の掲示板や
実際に人が集まって楽しむような場もある.
だから「ゲームが好きな人」は
一日中,ゲームをしていても飽きないし
一年中,ゲームのことばかり考えて生きていける
ほどの「ネタ」が世界には豊富にある.
ゲームの世界が,ここまで広がったからこそ
ゲームの世界の中「だけ」しか見なくても
飽きずに,生きていける.
ゲームも好きな人
一方,私が子供の頃
(ファミコンも無い頃)だったら
情報もソフトも乏しかったため,
さほど「ネタ」も無く
いくらゲームが好きだとはいっても
一日中「もつ」ほど…では無かっただろう.
そして,自動的に
「もっと他に見るべきモノ」にも興味が出て
世の中の様々なモノに 目を向ける機会も
多かったに違い無い.
選べるコンテンツ
ネットが普及したおかげで
世界中の 様々な「面白いモノ」を
いくらでも,タダで,簡単に
選んで見ることができるようになると…
多くの人は,
「様々なモノ」を見ようとするよりは
「自分が好きなモノ,興味あるもの」
ばかりを選んでみるようになるだろう.
それだけでも,見切れないくらいの情報量が
あったら,もうそこから出る動機も無い.
しかし…
「好きなモノだけ見てる」ってのは
結構な「偏り」であり「狭さ」ではある
選べるから…世界は広がらない.
「イヤ」の排除
「自分の好きなモノを選べる」とは
「嫌だと思うモノに,極力出会わずに済む」
…ということでもある.
「嫌だと思うモノに,極力出会わずに済む」
…ということでもある.
ここまでを読めば分かると思うが
それって
自分の理想とする「狭い世界」に
閉じこもり,他を見ない
ような生き方に閉じこもり,他を見ない
つながる可能性も かなり高いと思う.
そして「嫌なモノから逃れる」ことは
「思わぬ良さ」に出会う確率も逃すだろうから
ますます「他の(未知の)世界」への道は絶たれる
それって「自由」だろうか?
ひきこもり
ネットを使えば,家から出ることも無しに
情報を得たり,見聞を広めたり,買い物もできる
何らかのコンテンツを作って売るなどの
対価を得る「労働」だって無理では無い.
そして,ひきこもっている限りは
「嫌な人や 面倒な目」には 極力遭わずに済み,
物事を「自分の好きに選べる」度合いが高い.
そのような「ひきこもり」なライフスタイルは
昔なら,不可能だったはずだが
今や「選択や手段の自由度が高まったおかげ」で
それも可能になってきている.
そう考えると,「ひきこもり」という生き方って
「自由度が高まった」からできることであり,
「最も自由を謳歌した,夢のような生き方」
…だと言えなくも無い.
考えてみよう
ここまでに挙げた全ての例は
本当に「自由」ということなのだろうか?
本当に「自由」ということなのだろうか?
実際にも
何かの束縛や不自由から「逃れる」ことを
「自由を獲得した」と言って
それを喜ぶ人…というのが多いけれども
「何かから逃れることで得た
『自由』」というのは
結果的には
自分が活動できる範囲を
自分で「狭くする! と 決断した」
ってことでは?『自由』」というのは
結果的には
自分が活動できる範囲を
自分で「狭くする! と 決断した」
あとがき
「自分にとって居心地のいい『狭い世界』から
出なくて済むようにすること」が
「自由」という言葉の定義なんだろうか?
出なくて済むようにすること」が
「自由」という言葉の定義なんだろうか?
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→ 「求めるべきもの」 〜 2011年 12月25日