2016年09月24日

不安と危機感

何にもならない


誰もが、何らかの「不安、危機感」を
持っているものだと思うが

それらに対して、
あわてたり、騒いだり、焦ったり、
怒ったり、妄想を膨らましたりしてみても
解決に近づくことは 全く無い.

深刻度を深めたり
強迫観念の度合を高めることは
それを解決させることに寄与しない
…というよりも
むしろ「邪魔になる」と思えるくらいだ

危機感の払拭


「危機感を持て!」などと言う人もいるが
ほとんどの人は、そこまで言わなくても
既に 問題に対して一定の意識は持っている

そして、危機意識というのは
「分かっている、意識している」のであれば
それ以上、煽っても、なんにもならないどころか
健全で的確な思考を阻害することにしかならない



たとえば、心配事や妄想に
「とりつかれている」ほどに
気にしている人がいたら
「そんなに深刻になるなよ」…などと
言うアドバイスが適切なのであって

そんな人に「危機感を持て」などと言って
良い展開になるとは 全く思えないわけで

適度な意識


もちろん、問題に「無自覚」では
解決に向かうことも無いだろうから
「何の意識も無い」というのでは困る.

つまり「不安や心配、危機感が無い」
のが、最も危機に近い…ということは言える



だから 少なくとも
「問題点の認識や理解」があって
そして
「気にかけている」程度には、意識を
持っておく…くらい
のことは必要だろう

そして
「心配や危機感」のイメージって
その程度に留めておくのが 最良だ
と思う

やや前向き


ついでに言えば
「心配、不安、危機意識」を持つのって
「悪いことばかり」では無い.

たとえば、人は
何かを心配しているからこそ
それを よく見て、再点検し、向き合い、
解決や改善に向けて考え、行動する

生活に、様々な不安があるから
仕事や勉強をしたり、
様々な向上心、効率化を意識するわけで

もし人に何の危険や不安も無かったら
たいていの人は
「いかにもダメ人間」みたいに
ぐうたらしてしまうのではないのか

…などと考えると
「適度な危機意識や不安」自体には
人の向上に、結構役立ってる面もあると言える

健全な危機意識


要は、危機意識も
「持ち方、感じ方」次第である

以下、まとめ的に書くならば

不安感や危機感というのは
「深く味わうため」にあるのでは無くて
「解決に向けて動く原動力」として
使えたら、それが一番良い.

既に 問題意識を感じているのに
「今以上に、危機意識を持つこと」に
何の意味も無いどころか、これは有害である

再点検


そして、自分に向き合って
再点検してみたいことは

自分が現在持っている
いくつかの「不安、問題意識、危機感」は
それぞれ「適当、適切な度合」や
「健全なイメージ、感じ方」だろうか?

(同じ危機感であっても
その中身が「病的」だと、動けないわけで)

あるいは、その意識を
どう活用していくべきだろうか

あとがき


不安や危機感なども
自分が自分に向けている「シグナル」として
利用することができると思う.
posted by qzb02432 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみよう

2016年09月23日

願望をかなえる

かなえるための品


多くの「品」や「サービス」は
何らかの「人の願望や要求を
かなえるため」に ある

たとえば、軽いモノならば
「ヒマを潰したい」という要求をかなえるための
「読み物」とか「お手軽なゲームアプリ」
などがあり、それらが求められる

あるいは「重たい、深刻な」ものとしては
何らかの「悩みの解決」になりそうな
ノウハウ情報や、勉強、修行のネタ…などの
企画やコンテンツが買われたりする

娯楽がかなえるモノ


ただし、芸術や娯楽のコンテンツの場合だと
「何をかなえるか」は、
作る側、受ける側、双方とも 漠然としていて
明確で無いことも多い、とは思う.

でも、それは
「はっきりと意識していない」というだけで
「無い」わけでは無いし

ある「求めていたモノ」をかなえてくれる
コンテンツには、それ相応の高い評価がついて
売れる(ヒットする)ことにも つながる.

何を「かなえる」の?


…というか、娯楽のコンテンツの場合は
「大衆が求めているモノ」が
明確では無い…というところこそが

「難しいところ、考えどころ」であると言える

つまり「大衆が求めているモノ」って
何なのか?は
当人すら、意識できていないモノだったり
言葉で 言い表すのが難しいイメージだったり
あるいは
下品とか不謹慎で「言いにくいこと」
であることも多いわけで

簡単に調査や検索で分かるようなものでは
無いからだ.

かなえる品


だけど、この「求めている何か」を
的確に かなえる品を作ることさえ出来たら
それは、多くの人から求められる
ヒット作になる可能性も高いと思う.

何故ならば、世間に出回っている品の
ほとんどは
「的確に かなえる品」と言えるほどでは
無くて、

全く「ハズしてる品」だったり
「惜しい!、かすってる」程度の品であり

「ジャストヒットな品」なんて
ほとんど無いからだ.

一つでもかなえば


さらに言うならば、
人は、品によって
「一つだけでもいいから」
自分の願いがかなうのだったら

喜んで 買い求めてくれる

クリエイターは、一つの品に
「あれも、これも」入れようとしなくても
全然OKである.



…というか、ほとんどの品は
あれも、これも かなえようとしていながらも
「一つも、何も、かなえてくれない」
レベルの品であり、

それはまるで
「一つもかなえることが出来ないけど、
その代わりに、
色々なモノに手を出してる」ようにしか見えない

かなえる品を


だから、余計に思うのは
「一つ」でいいから、
それを しっかりとかなえる品を作ろう
ということ.

多くの人は
「いくつもの願望をかなえよう」とするわりに
何も、きちんと、ちゃんとかなえていない.

どれも「それなり」ではあるが
どれも「かなえるレベル」には達していない.

…というか、どれもイマイチなことを
「ごまかす」ために
様々な(複数の)目標や機能を込めているのかと
思ってしまうくらいだ

無価値なコンセプト


このような
「何も、かなえないけれど
あれこれ、手はだしてみる」的な考え方こそ
無価値であると 私は思う.

人だって「平均点、総合点」みたいなものを
気にするよりも
一つでいいから「得意分野、専門性」を持って
スペシャリストとしての価値を高めた人が
求められるわけで

「何もかもをそこそこできる」程度では
何だとも思われない.



あれもこれも出来る…なんてのは無価値だし

ある要素が「惜しい」ことを
他の要素で「補う」みたいな考え方は
それこそ最悪である

2016年09月22日

実績

信頼の大切さ


何事においても「信頼」というのは大事なものだ

人間関係においては、もちろんのことだが

商売も、
客やユーザーとの「信頼関係」が無ければ
うまくやっていくことは難しいだろうし

創作だって
「この人の作るものは 確かだ」という
信頼があったら、
「この人が作者だ」というだけで
買ってもらえるわけで.

信頼をつくるもの


そして
「信頼」というのは「実績」が作る

どんなに「言葉だけ」で
心地よい夢を語ろうが
「実際にしていること、作ったモノ」
が無ければ、単なる話だが

説得や説明の言葉など、ほとんど無くても
「実績」さえ良いものだったら、
それだけで 信頼はうまれる.

創作における信頼


クリエイターとしても
「これまで作ってきたもの」が
軒並み 高評価であれば

その「品たち=実績」が
名刺代わり、宣伝代わりとなる.

「代わり」というよりも
実績のほうが、本人以上に信用される

人は、ウソをつけるが
品や 行動、実績は、ウソをつかないからだ

自分が、あれこれと説得の言葉を並べなくても
自分が作ったモノが良かったら
それだけでいいのだ

評価


「人を評価」する際でも、

面接試験や 数回のテストによって
「直接評価する」のは、難しいけれど

その人の「実績」を評価するのは
それよりは容易であるし、信じられる



…というか
「言うだけの人、口だけな人」の評価って
どちらかといえば マイナスであるが

たとえ、その中身がイマイチであっても
「実際に 行動し、動いている人」
というのは、プラスの評価になるものだ

だって少なくとも
「見るモノ、評価の材料」が「ある」
というのだから
目を向けて 見てみようとは思うわけで

力自慢


それと比べると
知識や能力を 自慢的に言うだけで
「実際に したこと、作ったもの、実績」は
ほとんど無い…という人は

いくら「これだけ勉強しました」
「これだけ知ってます」と言おうが、
「見て、評価してもらうべきモノ」すら無い

そんなのは、いくらあっても
「一つの良い実績」に勝てないだろう

センス


「センス」のように、客観的に測定もできず
漠然とした能力も

「それを駆使して 作った作品」が
世間で高く評価された…という実績があれば
だれもが 「センスの高さ」を信頼する.

センスのことなんて よく分からなくても
それによって作った品が 実際に売れていたら
その能力の高さを 信頼せざるをえない

「センス」も「実績によって」はかられるのだ

実績作り


そして、最後に言いたいことは
モノを作ることは、実績を作ること

作れる人では無くて、
作って(きてい)る人のことを
クリエイターと言うのだ

クリエイターになりたい人は、
勉強よりも、まず
「実績をつくる=いろいろ作ってみる」ことを
どんどんやったらいい.

それが勉強にもつながる

2016年09月21日

アイデア勝負?

素の良さ


まず(冒頭ではあるが)、日頃から思うことで
しかも今日言いたいこと

センスが良い人は、何をやらせても良い

これはたとえば
自分が「好き、惚れてる」人の
すること、作るモノならば
何でも、欲しい、見てみたい…と
思う気持に似ている.

つまり、特別に好感を持った人の話ならば
たいした情報やネタは無くても
ずっと聞いていたくなる.

アイデア勝負


この逆が「アイデア勝負」という言葉だ。

多くの人は、創作や商売は
「アイデア勝負」であると思っているし
実際に、アイデアがヒットすることもあるが

でも、本当の魅力や実力がある人は
「アイデアにたよる」度合は控えめでも
一定の地位や 存在感を確保し続けることが
できている

一発屋


たとえば
「一発屋」というのは、
「アイデアがヒットした人」のことを言うだろう

ある「アイデア」が、大ウケして
一世を風靡するほどのヒットを飛ばしても
「基本的な魅力」に欠けていたら、
じきにフェードアウトしてしまう.

そのような芸人は、一発屋で終わらないように
「次なる芸」を、必死に考えてはいるのだろうが
そんな奇跡のようなアイデアが
次から次へと出るのだったら苦労は無い.

その人自体に、たいした魅力が無ければ
アイデアが飽きられたり枯渇すれば
たちまち 落ち目となる

センス次第


一方、多くのタレントは
「たいした、スゴい芸やアイデア」で
価値を出しているのでは無くて

「素や基本的なところから発せられる雰囲気」
自体が 魅力的で価値であるからこそ
業界に一定の地位を確保したままでいられる

そのような人は、自分のセンスが
世間に認められているというだけで
「アイデア勝負」なんてしていない.
「アイデア」に、たよっていない.

その人の「考え」が評価されているのでは無くて
「その人が発するアウトプットであること」
自体が評価され、求められている

料理


「料理」の世界でも、同じようなことがある

たとえば、私が通いたくなる店があるとしたら
そこは多分
何の変哲もない、単なる「ご飯」や「焼魚」
などの、普通のモノが「おいしい!」店だろう

一方、
何か「物珍しい オリジナルなメニュー」を
次々と考案してくるような店(料理人)も
まぁ「たいしたものだ」とは思うけれど

そこに「突出した料理のセンス」を
感じなかったらファンになることも無い.

センスが武器


もちろん、有名人である以上、
何度かくらいは、結構なアイデアや企画が
「ウケた」事実は あるのだろうが

でも「いいセンス」が感じられなかったら
突飛なアイデアなんて「一瞬、注目されるだけ」
のネタにしかならない.



逆に、「いいセンス」の持ち主は
突飛なアイデアを
「自分の良さを知らしめるため」に使える.

「アイデア」は、「武器」では無くて、
単なる看板に過ぎなかったのだ.

本当の武器は、その人が潜在的に持っている
雰囲気やセンスという所にあった

だから、そのような人材は
いったん注目を集めたら、
ネタは一つくらいしか無くても
その後も長くやっていける.

発想力にしがみつく人


世の中には「発想力、アイデア勝負」に
必死な人というのも、結構いるように思うが

「発想力や、アイデア」にこだわって
これを枯れないように!と必死になるのは
基本的なセンスに欠けているからではないのか
…と思える人も、中にはいる

そのような人は、基礎力では勝負できないから
余計に「発想力」などにこだわり、
「アイデアこそが武器」だと勘違いしがちだが
これは いかにも「一発屋」的な考え方である



もちろん、いいアイデアが出せることは
素晴らしいことだとは思うけれども

その「ありかた、使い方」に誤解があると
その良いアイデアを、良い流れに
つなげていくことは難しいだろう

2016年09月20日

脈絡のある新しさ

画期的な新しさ


「今まで誰も想像したことすら無かった」ほどの
「斬新、画期的」な 発明や創作や、
新手法、新システム…などを思いついて
これを発表する人って、いるけれど

そのような「全く新しいモノ」が
いかに、理屈では優れたモノであっても
すんなりと、世に(大衆に)受け入れられて
広まるかどうかは、また別の問題である.

既存のジャンル


たとえば、既存の どのジャンルとも違う
新しいタイプの ゲームソフトや、楽曲などを
思いついて、これを発表してみても

それは、既存のどのジャンルの
仲間でも無いので
「発表する『場』さえ 無い」
…ということに なりがちだ.

そういう品って、
既存のモノの「一員」では無いからこそ
「それを見る きっかけ」を
世に与えることが、意外と難しい.



たとえば、世界の誰でもアクセスできるはずの
ネット上などに そうした「画期的な品」を
置いておいても

「既存の何とも 関係を持たない存在」は
ただ置いてあるだけでは
誰も 見に来ないし、紹介もしてくれない.
…というか、説明や紹介「しにくい」し
どういう人が、飛びつくのかも分からない.

斬新すぎる


「新しいシステムやコンセプト」なども

あまりにも新しすぎて
「既存のシステムの何とも似ていなかったら」

その良さを説明するにも、説明が沢山必要で
いかにも面倒くさいし
実際以上に「難しいモノ」に見えてしまって
なかなか 受け入れてもらえない.

たしかに「斬新さ」は
モノの良さの 一つの尺度かも知れないけれど
「よく分からないモノ」に
人は、飛びつくどころか 避けるものである

「ちょっと良い」程度


そんな「斬新過ぎるモノ」よりも

実は、誰もが良く知っていたり
受け入れられている「既存のモノ」の

「ちょっとだけ」改良や新鮮味が
入った程度の品のほうが
ずっと多くの人が見てくれるものだし、
一目で、感覚で、理解できて広まるものだ

新しさのイメージ


つまり、多くの人は
「今まで見たことも無いような斬新なモノに
出会いたいなぁ」…などと 口では言うが

実際に「今まで全く無かった新しいモノ」
が、あったとしても、
そこに目が向くことも無いし「理解」もしない.

それは、あまりにも新しすぎて
「知るor分かるきっかけ」も持てず、
そこに「新しいイメージ」も 意外と持てず、
何か「自分には関係の無い、知らない何か」
として 無意識のうちに無視してしまうし
宣伝や説明するのも難しい展開となる

分かりやすい新しさ


ただし、同じ「新しいモノ」であっても
「出し方次第」で、人々の反応は
随分違うことは多いと思う

つまり、新しいモノを出すにしても
それは「既存の」「充分になじみのある概念」や
「大衆に受け入れられている要素」の
「改良版、新趣向」みたいなイメージとして
出すのが良い.

「今までに全く無かったモノ」よりも
「既存品の改良版」として出すほうが
紹介も、説明も、理解も容易であり

その程度の新しさであるほうが
人は「おお、新しいな!」と思うものである

これは「既存の品、これまでの普通」を
誰もが 知っているからこそ
「ちょっとした改良」も誰もが理解できる
…というのにも似ている.

新要素の出し方


これは、ストーリーや 曲などの「展開」として
「新しい要素を見せる」際にも言える.

つまり、新しい要素を出して驚かれたかったら

「充分に なじみのある、
受け入れられている要素」と
「関係のある、新しい要素」として出すのが良い



見せかたがヘタな人は
「驚き」を与えようと思って

「今までとは全く違う、別種のモノ」を
途中で、突然出したりするが
今までの流れと全く関連も無いモノを
突如出しても
「何だか、脈絡も分からないモノが出てきた」
などと混乱するだけだし

突然、全く違うモノが出てきたら
「『今まで』は、何だったの?」ってことに
なってしまう.

関係性が感じられてこそ、
新しいモノを出す意味ってある.

あとがき


「斬新過ぎるモノ」ほど
「既存の品の改良版」くらいのイメージで
紹介したほうがいいし、

「ちょっと新鮮味を入れた程度の品」のほうが
「斬新!画期的!」と、誇張して言うほうが
結果が良かったりするものだ